忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

剣崎梨々花が気になって

 映画『リズと青い鳥』にもし剣崎梨々花がいなかったら?

 この問いはあほらしい。剣崎梨々花は物語上、鎧塚みぞれに変化をもたらす重要な位置にいたわけで、欠くことのできない存在であった。が、それ以上に彼女がいてよかったと思えることがある。もしいなかったら、人間止めちゃうか?みたいな境地に至るひとが続出したのではないか。そんな想像をしてしまうほどに傘木希美と鎧塚みぞれのふたりが紡ぐ人間ドラマには生々しいひりつき感があった。そうなのだ。ぼくがこの作品のもつ圧になんとか耐えることができたのは剣崎梨々花の存在に負うところが大きい。

  原作あるいはアニメ本編にふれていないからあやしいけど、剣崎梨々花は普通のひと、凡人であるという理解であっている?第3にして最重要人物は凡人でなければならなかったのか?そこはどうだろう。ちょっとわからない。

 

 傘木希美と剣崎梨々花の違い?

 同じ凡人でもかなり違う。劇中の役割の違いみたいなことばは使いたくない。

 考えるのが面倒なので次の話題に行こう。

 

 プレゼントについて 比喩?

 梨々花→希美 卵 卵を上げるからあなたの手の中の鳥を放して?

 みぞれ→梨々花 リード これはわからん。来年のオーディション頑張って?

 希美→みぞれ 青い羽根 翼をあげるのでわたしから飛び立って?

 (どちらが、だれが青い鳥だったのかを考える必要はないと思う。登場人物みんなが青い鳥と示されていたはず。青い鳥たちが一斉に羽ばたくシーンは学校からの卒業を意味する表現だったのだろう。)

 

 プレゼントの逆向きも考えてみる?これはよくわからない。

 

 凡人の持つ力と才能

 剣崎梨々花が鎧塚みぞれを変えた。こういうことができるのが凡人の力という理解。

 傘木希美はどうだろう。みぞれにとっての生きるすべてであるなんて尋常な力ではない。希美はすげーって話だ。そのような力も凡人ならではないだろうか。

 『かえるくん、東京を救う』(村上春樹)の片桐を彷彿とさせるゆえんである。彼もまた凡人だ。

 梨々花や希美が自分たちの力を自覚しているのかは判然としないが、かりに自覚していたとしても、みぞれの才能に魅かれるのだろう。不思議だ。けれど、納得してしまうものがある。なんなのだ?才能が及ぼす範囲は広大、一方で、凡人の力の及ぼす範囲は限定的、特定のだれか?よくわからん。これはやっぱちがうな。

 みぞれを変えたという点に着目するなら、新山先生も高坂麗奈もそうなる。高坂麗奈にいたっては才能オーラばりばり放出。余談めくが、新山先生は期待通りのよき導き手であり、クソセンコーだった。

 希美と一緒に居続けるために頑張ったオーボエの才能がやがてふたりを…という成り行きも泣ける。そのことに限らず、描写のひとつひとつが確かな説得力をもって重なり、そびえ立つ。そんな構築物としての隙のなさが逆にぼくのような迂闊な受け手に勘違いをさせる。なんとなくわかったような気にさせてしまうのだ。

 この作品と限らず勘違いはよくしているかも?まあ、それは諦めよう。

 

 追記

 才能というものが発揮される空間が極めて限定的と考えてみる。

 ふりだしにもどってしまうが、才能というものが得体の知れない、とらえどころのないものであるにもかかわらず、その存在に直面した人にははっきりと輪郭が浮かび上がる、その不可思議、という問題に帰着するような、しないような。

 

 剣崎梨々花から話は逸れていったような気がするな。強引にまとめると、先日書いたように彼女が出てくる場面がぼくは好き。

 

 メモ終わり

 文章化を途中でところどころ放棄。