忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

映画『リズと青い鳥』の感想 いかにして美しい嘘は生まれるのか

 チョコミントを買いに行こうと思った。ところが、外は暑そう。

 ってことで、ずっと書こうと思って放置していた映画『リズと青い鳥』の感想を日記に残しておくことにした。決して、暇になったからではない。今さっき思い出したからだ。

 ちょうど1年前くらいに初めて見たのか。なんだかんだで6回くらいは見たような気がする。その度に、メモを残しておいたはずなのだが、今日はそれを読み返して、まとめるみたいなことしない。決して、面倒だからだではない。いや、面倒といえば、そうなる。が、それよりも、どこにぼくが感動したのか?その一点に感想を絞ろうと思ったからだ。ああ、やっぱり面倒なだけかもしれない。したがって、作品の紹介といった、本来なら感想とともに添えておいたほうがいいようなものは省く。

 

 ・いかにして美しい嘘は生まれるのか?

 主人公であるふたり、傘木希美と鎧塚みぞれの会話は最後まで驚くくらいなめらかに、そして、微妙にかみ合わない。そのまま、この映画の幕は閉じる。(これが一応、映画の紹介という体裁であります。)

 が、実は、かみ合いかけた瞬間がたぶん、一度だけある。クライマックスの大好きのハグのシーンである。その肝心な場面で、希美は不意に嘘をついてしまう。

 みぞれにはひとつの大切な思い出があった。それはある少女との出会いである。引っ込み思案でいつもぼっち気味なみぞれ。そんな孤独な少女にひとりの女の子が声をかけてきた。その女の子こそが傘木希美。吹奏楽へのお誘いであった。おそらく、みぞれにとって人生初の友達誕生の瞬間だ。この場面のみぞれの表情はとてもほほえましい。自分に友達ができたという事態をうまく呑み込めていない顔をしている。以来、みぞれは希美のそばから離れたくない一心で吹奏楽に励む。尊い

 が、その尊さのうちに悲劇は胚胎していた。みぞれはあまりにもうまくなり過ぎた。その才能は他者の憧憬だけでなく、嫉妬も生む。傘木希美もその例外ではなく、ふたりにとって大切な思い出を忘れた、と嘘をついてしまう。皮肉にも、希美から不意に嘘をひきだしたのは他ならぬみぞれの音楽の才であったのだ。そんなつまらない嘘は希美自身だけではなく、みぞれも蝕む。みぞれでなくとも、大切な思い出はだれかと共有したいものである。

 みぞれの音楽への献身を「別のなにかを達成させてしまった系」として、考えてみたことがあるが、これもそのひとつであったかもしれない。

 とためしに記述してみると、どこが美しいのか?と疑問が浮かぶ。

 咄嗟に出た嘘、嫉妬やいじわるにまみれた嘘のどこに美があるのか?そこをもう少しほじくりかえしてみよう。

 といかにも丁寧に論述しそうな雰囲気をかもしつつ、せっかちなので、結論を急ぐ。

 相手にばれない嘘、すなわち、秘密であることは美しい、と言えやしまいか。『風姿花伝』のお話を始めようとは思わない。なぜなら『風姿花伝』、それ自体を読んだことがないから。ただ、「秘すれば花」ということばを連想したのだった。

 少なくとも、バレる嘘はあまり美しくない。

 ここで特筆すべきは秘密が秘密であることを全うする点にある。汚い嘘であっても、秘密である限り、美しくなりうる。傘木希美の中にはきっと幾ばくかの後悔も残っただろう。なにせ、熟慮の末ではなく、売りことばに買いことばで出てきたような咄嗟の嘘だし、いじわるも、嫉妬もあったのだから、自らのこころのあり様に気づいたはずである。が、それでも、そういう後悔や自己嫌悪を飲み込んで、不意についた嘘を倒錯的に、意志的に生きる。その嘘がどんなに悲しいものであったとしても、その悲しい嘘を生きる。そんな希美の姿にぼくは「花」をみつける。

 しかし、それは同時にあることを意味する。ある少女が社会に馴致するいち過程で現れる姿でもあるのだ。人は不意にだれかを傷つけながら生きていくしかないし、そのことに徐々に慣れる。社会に生きるとはそういうことだ。月並みなことばでいえば、その「花」は咲いた瞬間に枯れている。これもまた哀しい。

 

 さて、ここでさらに恋の問題として吟味したくなってもくるが、というのは性にまつわる嘘だから美しいという可能性の追求が残されるが。

 チョコミントを食べたい。

 ということで、その考察はまたにしよう。

 

 無理やり、今日のまとめに入ろう。

 ぼくは肝心なことを書き忘れた。本日の日記はタイトルから嘘が始まっている。すぐバレるほうの嘘なので、まったく美しくも、なんともない。

 「いかにして美しい嘘は生まれるのか」というと方法論を語るか、に見えるが、実際にはそんなことはできない。すでに、述べた通り、その嘘は不意につかねばならないからだ。不意が方法に依存するようでは困る。そもそも方法論が確立できるようなものではないのだ。

 くわえて、美しい嘘は残念なことに嘘をついた当人からは美しくは見えない。これまた、すでに述べた通り、希美は自己嫌悪したはずである。いうなれば、当人視点では美しい嘘はつけないのである。が、この洞察から別の可能性が開けてくる。美しい嘘が宿るとすれば、作品と受け手の交渉の中にしかないのだ、と。

 これがぼくの最近、気になっていたことだ。

 ①嘘を通してしか見えてこないものがある。この作品でいえば美。

 ②当人には見えないのに、第三者視点ではそれが見える。

 ①は倒錯?②は錯視?という評言が適当かはぼくにはよくわからない。すこし大げさなことば遣いをすれば、人生の秘密がある感じ。自分のことは自分が一番よくわかっているはずなのに、肝心なところは自分からは見えないもどかしさがある。不可知性か。

 余談めくが、自分を登場人物のひとりとして観察できる場合においては、そうではないのかも。(寝ているときに見るほうの)夢とか、回顧など、その限りにおいては不可知ではなくなるかもしれない。しかし、それでも、きっと「花」は見つからない。

 ともかく不思議だ。『リズと青い鳥』はその不思議を作者たちが描いていたのだ、とぼくは思っている。

 くどいようだが、もう一度。

 この文章を読んでも、美しい嘘がつけるようにはならない。世界はそんなふうにできている。気がする…

 

 自分用メモ

 そのうち『風姿花伝』を読む。

 

 自分用メモ

 消失点は見えてはいけないものが見える話だろうか。もしかして、美も、実は見えてはいけないものが見える話なのかも。

 そう考えると、それをあぶりだす技術が表現となる。

 「見る」、「表現」これらの行為はいろいろとよくわからない。