忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

暑さ寒さも…

 昨日というか、もう0時をまわっているので、正確には一昨日から雨で今日というか、正確には昨日は寒かった。

 天気の良い先日などは土手でなにやら春のもの(じろじろと観察したわけではないのでなにかはわからず)をつんでいる夫婦を見かけたが、こう寒くては今日は、というか、昨日は人気もない。

 

 アニメ『平家物語』の録画を見ようと思ったら、やはり別のものが録画されていた。当日の夜は電話を避けたが、翌日、確認したら元気そうでよかった。デジタルネイティブ世代だと電話以外の連絡方法のほうがふつうだったりするのだろうか。どうも、ぼくはやっぱり時代についていけていないのか、どうか、人の声をじかに聞くと、といっても電話越しだが、ともかく、そうすると安心する。この文も、句読点が多いし、おっさんなのだろう。そういえば、意図的に句読点を全く使わない文章とか、最近、何かで見た気もするが、まあ、忘れた。横光ではない。

 

 そういえば、『やがて君になる』をまだ読み返していない。その前にまた、どーでもいいことを考えてしまったような気がする。

 まあ、「私秘性」のことだ。七海燈子の姉は家族と学校で違う顔をのぞかせた。そういう多面的な人物として登場する。そういう人にとって、本物の自分、本当の自分とはなにか?

 一般論として、本物の自分とかいないんだと退ける論を立てることはできると思う。ただし、本作においてはそれほど事情は簡単でもない。スピンオフである『やがて君なる 佐伯沙弥香について』においては、それこそが主題であったからだ。

 一緒にいる人によって、見せる顔が異なる人間にとって、本当の自分とはなにか?それを担保しくれるものが「私秘性」なのかも?という感覚。それで、やっぱり、これは記憶とは関係なくあるんじゃないか、と。だって、たいして記憶の蓄積のない幼いころに、すでにぼくはぼくであったのだ。たぶん、朝に目が覚めた瞬間から、その「私秘性」というものがある。

 こういうものに先立って「独在性」というものがあるというところまでは論証によって十分に、おつりが出るくらい納得はしたのだけど、その端的な事実に対する驚きがぼくには足りないのだと思う。それは私秘性のもついかがわしい魅力というか、なんというか。誤解を予め退けておくと、変態的な妄想に人知れずひたるみたいなお話ではない。無論、そういうだれにも言えないようなことに身を悶えさせることであってもいいのだけど、そういうものでなくても「私秘性」を構成することがあると思う。人間よりも犬が好きとか。これもちと違うか。自分でさえよくわからない何かとしか、言い様がないような、そうでもないような。

 『仮面の告白』の作家にはやっぱり『やがて君になる』を見てほしかったと以前にも思ったが、しつこいようだが、今でもそう思う。でも、生年を確かめたらかなり長生きしないと厳しいようで、世の中ってものは難しいもんだなと月並みな思いに至った。

 ああ、また脱線。

 ともかく、「私秘性」というものは解明できないから、おもしろいのではないかと。いかがわしいというのは、そういうことでもあり、魅力的もそういうことであり、まあ、面倒になってきた。

 世界にはいろいろな謎があると今は雑駁に書き残しておこう。

 そういえば、『見える子ちゃん』の謎もぼくは放置したままだし、感想も書いてなかった。主要な登場人物の三人は異なる世界観を持って生き、友達になっているが、その世界観の違いから厳密な意味では会話は成立していないのに、なぜか日常生活には支障をきたさないという、これまた、世界の謎のひとつを描いていた。ズレた会話が当人たちにしてみれば、ズレいている認識すらなく、なんとなく通じちゃう問題。それどころが友情まで成立しちゃう問題。まあ、よくわからないので、ほったらかしている。感想としては、アニメ化の範囲内はおもしろかった。原作は未読。以上、おしまい。

 あ、大事なことを書き忘れた。そのズレた会話がなぜか、笑いを誘う。コメディとはそういうものなんだといえば、そうなのかもだけど、これは自分でも考えてみたいかも。

 

 ブロガーさんのラジオに触発されたわけではないけど、愛子さまついてはぼくも感動した。ちなみに会見を生放送(死語?)では見ていないし、ダイジェストを見たに過ぎない。まあ、しかし、ぼくにとって天皇といえば、昭和天皇ではなく、上皇ということになる。さらに余計なことを書くと共和制が望ましいとも思うが、これはそれほど強く主張したいことでもない。

 女性天皇、さらには女系天皇論が盛り上がる契機に当該の会見はなるだろうか、という危惧もあるが、ぼくの場合の危惧はいわゆる保守のそれとは異なるとか、くどくど書くべきでもないか。

 というか、天皇制に関する議論について、その賛否を問わず、議論そのものを吹っ飛ばす力があると愛子さまから感じてしまうのだ。

 そのことは悲しいことな気がする。だれにとって悲しいのか?

 真子さまはまた別の意味で普通の子ぽくていいなと思ったけど、また、余計なことを書きそうなので、寝よう。(ぼくは会ったことがないし、会うこともないであろう「港区女子」のイメージ。)

 

 メモ『リズと青い鳥』の芸術論?信仰問題?

 『ユーフォ』を今、見ているので暇なときにまた、『リズと青い鳥』について考えている。

 鎧塚みぞれの芸術に対する姿勢について。みぞれは希美と一緒にいたくて、ただ、それだけのことで音楽をやっている。希美>音楽という優先順位ははっきりしている。が、皮肉なことに音楽の才能が開花して、希美とは歩む道を違える(たがえる)。

 この型が芸術論として理解できるのか、どうか。みぞれの場合、芸術への向き合い方として、必ずしも、純粋とは言えない。が、これこそが転倒の契機という読み方。

 まあ、でも、これは芸術論というよりも信仰の問題として見たくなる。吉本が宮沢賢治の信仰に関する議論で、ふつうの人がいかにして信仰をなすか?みたいな話をしていた。ふつうの人が達しないような信仰ではおかしいので、いかにして凡人でも仏の道を歩めるようにするか、という問の立て方だとおもうが、みぞれはその型を示しているような。というか、そう理解してみたい。

 別のなにかを達成してしまった系と文字化するとなんか茶化しているみたいに見えるけど、ぼくはけっこう大まじめにそう思っている。自分でなにかを達成してしまったと気づくようじゃ、それは全然、だめなんじゃないの?とは無論、他者にいっても仕方ないけど、自分ではそう考えるしかないような。

 みぞれは希美と一緒にいたくて、音楽をがんばったのに、本来の彼女の望みとは異なる、別のこと、音楽の才能の開花を達成してしまったという解釈。(この映画のえっちーなところはこうとこだと勝手に思っている。)

 生き方として見れば、みぞれこそが凡人であるという転倒が、ここに見て取れる。

 と書いてみたけれど、なんかもうちょっとちゃんと考えないとだめかも。

 眠い、寝る。