忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

昨日の続きなど

 冬の散歩が好きなので、この時間に菓子パンが食べたくなったという口実を捏造し、夜道を散歩してきた。気持ちよかった。「じゃりぱん」なるものを初めて食したが、2本買ってきたので、また、明日食べてみよう。味については甘いことしかわからなかった。

 関係ないことを思い出した。まだ、学生の時、世の中には最高においしいドーナツがなぜないのか、不思議に思っていたが、よくよく考えてみるとお菓子というものは最高おいしいものではいけないのかもと思い直した。あまりにお高いと毎日、たべられなくなるじゃん。あるいは、ぼくが食べたことないだけで、最高においしいドーナツというものがこの世には存在しているのかもしれない。

 

 『リズと青い鳥』における傘木希美の美しさについて

 昨日の書き方はちょっとだめ、と。もうすこし仔細に書かないと要らぬ誤解を誘発しそう、ということで書き始めよう。まあ、読みかさえないけど、ぼくが過去のぼくを誤解しそうな書き方だったのだ?

 希美はみぞれとの出会いの記憶について忘れたふりをする。つまり、嘘をついた。それは美しい嘘であったのか?であるなら、どこが美しいのか?

 音楽の才能という観点から見れば、みぞれのそれは希美を凌駕する。ゆえに、希美はみぞれにまっすぐ音楽の道を歩んでほしいと願い、あえて嘘をついたのか?そう理解すると、それは献身としての嘘であり、そこに美しさが宿ると言えるかもしれない。

 が、ぼくはそう見たくないのだ。昨日の書き方ではこのように受け取られても仕方ないくらい雑だった。では、どう理解するのか?

 希美のとった行動、この場合は記憶のないフリ、つまり、嘘は咄嗟にやってしまったことであると見たい。本当に人間はわけのわからない生き物で、後で回顧したとき、なぜあんなことをいってしまったんだ、とか、やってしまったんだということが、しばしば起きる。(最近、『時光代理人』を見た影響でそう考えているわけではありませんよ。)

 こう理解するとどこが美しいの?と疑問がよぎるかもしれないが、そんなことはない。希美は咄嗟に出た嘘を最後まで手放さないのだ。そういう人間の図太さというか、たくましさが美しい。嘘ついたって、空元気だして、嘘を生きていくしかないみたいなことはたまにあるんだ。それこそ、嘘ついてしまった以降の成り行きを知ったうえで、また、やり直せるとしても、きっとまた同じ嘘を繰り返す感じ。

 ちょっと書いているうちにことば遊びになってしまいそうだけど、嘘に美しさが宿るとしたらそういうことなんでないの?と。

 ぼくが美談風な理解が嫌いということはあるかもだな。これまた、ことば遊びになりそうだけど、美談風理解こそ嘘くせーと思っちゃう。

 ということで、『リズと青い鳥』の主人公は傘木希美であるとぼくは考えている。

 

 上記の内容に関連して、三つの関係性について散歩中、考えてみた。

 黄前久美子×高坂麗奈、傘木希美×鎧塚みぞれ、びわ×平資盛

 

 久美子×麗奈 お互いに嘘はつかず、正直。

 希美×みぞれ 希美が嘘をつき、みぞれはそれに気づかない。

 びわ×資盛 資盛が嘘をつき、びわはそれに気づくが、その嘘にのる。

 とくに、希美×みぞれの関係性からびわ×資盛の関係性への変化はなんだろう?と思う。

 久美子×麗奈 こども×こども

 希美×みぞれ おとな×こども

 びわ×資盛 おとな×おとな

 よくわからん。

 とさっき考えているうちに家路についた。

 

 夜更かししたし、夜食に甘いもの食べし、歯を磨いて寝る!

 とおもったけれど、27年たったようだ。27年という歳月はブロガーさんのラジオで知った。

 この間の日本社会における変化について、

 そんな大げさな話でもないけど、上祐さんのような話法は定着したんだなという実感。ぼくの記憶はがきの頃のものなので、そこまであてにならないと言い訳をはじめにしておくと、今でいう情報番組に上祐さんを呼んで、しゃべらせていたのはある意図が制作サイドにはあったからだろう。わけわからんの屁理屈をこねくりまわしている奴はけしからんという煽りを意図していたと思う。キャラに注目があつまったとも言えるかも。

 あれから27年もたち、その話法もすっかり日常に溶け込んでいるような気がする。ただ、上祐さんはなぜああいう話し方をしていたのか?ぼくにはこういう話し方に対する嫌悪感がある。屁理屈であるところに対する嫌悪感ではない。ことばのあやで彼がなにをねらっていたのか?そこが判然としないからだ。

 テレビ越しではなく、じかに話したら、と想像してみる。ぼくは耐えられんと思う。

 たまにテレビやyoutubeでこの種の話法に出くわすと、その影を見ることも正直、ある。でも、嫌悪感みたいなものはどこかにいってしまった。ぼくもそんな話し方をしているからかもしれない。まあ、それはどーでもいいや。とりあえず、良い悪いを通り越して、社会に定着したということなのだろう。しかし、ちょっと変だよなという感じ。

 

 ※当該ラジオを聴き直しての感想、メモ

 『ピンドラ』に関して

 幾原邦彦さんのその後の作品、『ユリ熊嵐』についてはともかく、『さらざんまい』はどう理解したらいいのだろうという疑問。『ピンドラ』にあった批評性はいずこ?とぼくはおもってしまったのだ。『ピンドラ』解釈はとても勉強になった。社会と不可避に対立せざるを得ない状況がいかにしてうまれるのか。

 麻原を悪魔化する(せざるを得ない)社会について

 こういうことをはっきりいえるか、どうか。そこは相当な勇気がないとできない。すごいと思う。まあ、ぼくはそこまでの考えに至らないのだが…

 先日の滝先生に関する記述は書き直そうと思う。過去の日記は訂正しないが…

 おおきく主張が変わるというお話ではない。滝先生みたいな人が嫌われ役を買って出る権力をつくりだす社会に根本的な間違いがあるという記述のほうがより正確だっただろうと思う。(もっとも、この話は麻原にも言えるかは微妙。麻原が嫌われ役を買って出たようには見えないので…裁判がああした形で幕を閉じ、不明となった。)

 

 話は飛ぶけど、尾身さんに関する不利な報道がちょいちょい出てくるのは不気味な社会だと思う。JCHOの補助金の報道とか。そういう社会なんです。はい、そうですか。とはならん。どーしたもんか…補助金をもらいやがってけしからんと言いたいわけではない。どうして、そういうものが、だれの意図によって、どういうタイミングでニュース化されるのか?という疑問。だって、こういうお話は知っていた人にとっては公然の秘密なわけで、無論、その知っていた人に報道機関は含まれる。報道機関が社会を動かしているみたいなことを言いたいわけでもない。変な社会?といたいわけでもない。