内容整理のためのメモ
『Vivy-Flourite Eye's Song-』 7・8・9話 オフィーリア編を終えて
AIがこころのようなものをもつことがはっきりした。そして、そのことで「使命」が成立しなくなると自殺(自壊)するということなのだろう。オフィーリアとアントニオの悲劇の構造は冴木とグレイスのそれと同様に共同幻想と対幻想の対立と見ることも可能。オフィーリアの心の葛藤として、みんな(人類)を幸せにするために歌うのか、アントニオのために歌うのか、そのように見た場合、この対立構造になる。
垣谷がヴィヴィに固執する理由も明らかになった。これも共同幻想と対幻想の対立。垣谷はピアノの先生に自分の先生であり続けてほしかったのだろう。
使命にAIの在り方(「存在倫理」のほうがいいかも)が背馳する。まあ、もっと別の言い方もあるかもしれない。
垣谷とピアノの先生
グレイスと冴木
オフィーリアとアントニオ
この3組はそういう話。
やっぱ主題は愛なのかなと今のところは思っている。
ただ、それぞれの使命について整理してみる必要はありそう。
・オフィーリアは使命から逸脱してアントニオのためだけに歌おうとしていたのか。
・ピアノの先生とヴィヴィは使命を拡大解釈しているのか?逸脱しているのか?特にヴィヴィのAIを滅ぼすAIという使命
いくつもの二人組が描かれる物語として見た場合、先日のでは漏れがあった。
オーナーとエステラ
垣谷とヴィヴィ
垣谷とエリザベス
エステラとエリザベス
ディーヴァとヴィヴィ
ディーヴァとマツモト
これらも加えたほうが良かった。
AIにおける「使命」という概念で展開する物語
共同幻想と対幻想の対立
社会的に期待される役割と対幻想から生まれる自己幻想(セルフイメージ)のバッティング
こんな感じに見てくとAIを人間に置き換えて考えることもできそう。作者をそれを意図しているかは今のところ不明。そう見れないこともない程度の話。
不満ということではないが、人間があまりにも出てこなさ過ぎて、AIと人間の対比みたいなものは見えてこない。意図的にやっているのだとしたら、そもそもその対比を描こうしているわけはないとなるはず?
個人的な感覚として
この作品はまだ未完なので何とも言えないが、人間とはなにか?の再定義をせまる作風に対する不満点は人間らしさを称揚することの危うさにある。日本の歴史で見たら、「天皇機関説」に対する攻撃なんかもそれにあたるのではないか。社会システムの中の位置づけとして天皇を「機関」として捉える見方はあってよい。こういう視座が有効であればこそ、ワクチン戦略みたいな社会システムが成り立つのだろう。天皇だけでなく、人間を機関というか、機械というか、歯車のように見たほうがいい場合もあるわけだ。人間らしさの恢復とか、程度問題ではあるが、あまりにも極端になるとぼくは忌避感をおぼえる。一般的に「よきこと」とされるものの訴求力に頼るのが「文学」であるはずがない、とぼくは思う。
この作品の別の見方としては歴史改変もの
歴史改変ものといってもいろいろありそうだが、『Back to the Future』や『シュタインズ・ゲート』とは違うか。これらは人類とAIの戦争の回避みたいな仰々しいものとはあまりかかわりがない。『シュタインズ・ゲート』は多少その側面もあるが、それが主題ではない。
歴史改変ものというものがあるのだとして、それって面白いのか?歴史を改変するってなんなのだ?
昭和の戦争をもっといい形で終わらせることができたならみたいな発想?よくわからん。