忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

ノベルゲームというものをやったことがない

 歴史改変もの→世界線分岐系

 そのことを考えていて、ぼくにはちょっとわからん、理解の及ばない世界観だと感じていたのだが、物理学に詳しい人とかノベルゲーム愛好者にはそうでもないのだろうか?

 『fate』シリーズとか『シュタインズ・ゲート』とかゲームのほうも楽しんでみようかなとはなかなかならない。かなり時間がかかると聞いたので。恋愛ゲームなんかもどんどんシナリオが分岐していくのか。

 うーん、恋愛なんかでも分岐するというのがちょっとよくわからない。選択するということは恋愛に必然性を見ていることになるのか?大袈裟な話ではなくて、巡りあわせ、偶然性のほうをぼくは重視するかも。たまたま、同じ学校で、同じ電車に乗っていて、たまたま、ほかの誰かよりもほんの少しだけ時間的に早く親しくなったのがきっかけみたいな。にもかかわらず、たとえ勘違いであったとしても、そのひとでなければならなかったという限定性と両立するみたいな奇妙といえば奇妙な話。書いていても意味不明だが、必然性から始まるような「名高い恋の物語はうまれない」(『涙が涸れる』吉本隆明)、そのことだけははっきりしていて、おそらくはぼくにとってはそんな感じなのだ。

 ハーレムものラブコメなんかはまさにクライマックスがだれを選択するのか、そこをどう見せるかがキモなのか。そういうのをあまり見ないからよくわからんな。

 犬がうちに来たのも偶然だった。詳しい経緯は知らないけれど、ある日からかれとはいっしょに暮らすことになったのだ。

 

 まあ、でもことの成り行きが分岐する契機を必然と見るか、偶然と見るか。そこにはそのひとの人生観の反映があるのかも。

 今、結構夢中になって見ている作品はどちらかといえば、必然よりな見方なのかも。AIの意志の力を感じる脚本、演出に見えるし、そこにぼくも魅力を感じる。

 

 全然関係ない話。

 尾身さんの対談記事を見た感想としては、かれが「宗教指導者」という比喩が妥当か、どうか、ぼくには判断できなかった。