忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

7巻について

 『安達としまむら』7巻はちょっと難しかった。作品内の現実の世界と架空の世界が交差して描かれていく。まあ、読んでいてもよくわかっていないので判断はいろいろと留保しておこう。6巻だったかしら?安達と島村と樽見が同じ幼稚園に通っていたら?みたいな設定の話もあった気がする。とすれば、6巻から実はふたつの世界が交差するように話が進められていたのかもしれない。迂闊だった。そこらへんは気にして読んでいなかった。

 7巻では島村の寝ているときに見る夢の話も出てくる。この夢と架空の世界の関係性とか?どうなっているのだろう。

 『この世界で』の章はなんなのだろう?

 

 覚えている範囲でメモ

 現実との共通点 かならず安達と島村は出会う。

 現実では安達→島村という感じだが、架空の世界では必ずしもそうではなさそう。

 島村→安達と読めないこともない。

 島村の夢に出てくるヤシロだけは夢の中でも実在感がある。ヤシロはひとの夢に入り込むことができるのだろう。ヤシロってやっぱ変な存在だな。樽見やゴンは夢の中での存在として出てくる。現実離れした存在として。例えば、年齢が現実と異なるとか、もう走れないはずなのに走っているとか。ヤシロだけはたぶん現実と変わらない。やっぱ島村の夢に侵入しているのだと思う。

 架空の世界のヤシロはどうだったのだろう?幼稚園に来ていた気がする。

 島村の小さな祈りをぼくはとても好き。島村らしい祈りだと思う。

 あ、あと、ヤシロのドーホー(同胞)が登場した。

 

 現実の世界と架空の世界の境界が曖昧になるみたいな話ではないだろうし、なんなのだろう?8巻読んでみるとすこしはわかってくるのだろうか?

 なんとなくの予感だけれど、7巻の位置づけって不思議な感じになりそう。7巻だけは丸々別作品としても読むことができそうな感じ?うーん、どうだろう。アニメ化するなら、どうなるのだろう。ちょっと想像つかん。

 

 ちょっと強引に分かったような気になって書いてみると、島村の言う「可能性」ってやつに関係あるのかもしれない。安達との出会いの様々な設定?でも、島村の言う「可能性」は安達に出会ったことで限定されるみたいな話だったし、違うかもだ。やっぱり、よくわからんな。でも、面白かった。

 いくつもの世界線に分岐するみたいな解釈はぼくは好きではないので、そういう読み方は端からしない。7巻について言えば、どれも現実で分岐しているだけ、という解釈はとらないという意味。現実の世界はふたりは高校生、それ以外は架空の世界という解釈。なぜ?って、ぼくはぼくの人生をそんな見方をしないからで、ぼくにとっては今、日記を書いているこの世界しか現実ではない。例えば、別の世界で大学生活をなまけずにまじめにやっているぼくがいるなんてあり得ないし、ある日、突然、ぼくのうちに来た犬を檻から出さずに、しつけをきちんとするなんてこともあり得ない。もっともどちらにもそれほど後悔はない。なにしろ毎日楽しかったのだから。『安達としまむら』の7巻もそこはそうなんじゃないかと思うわけだ。だから、どの架空の世界でもふたりはかならず出会っているのだろう。現実の世界のふたりにとって、その出会いがいかに大切なものであるか、それを反映させているだけだと思う。

 

 なんか同時並行で何冊か、読むのを止めよう。頭の中がごっちゃになってきた。