忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

10巻のメモ

 9巻、同様、10巻の中でも時間を行ったり来たりしていた。この問題もおもしろいけど、考えるのは放棄中。

 特に印象深かったもの。安達の巣立ち。樽見、泣く。このふたつ。

 安達の巣立ちは安達視点から描写と母視点からの描写。両方ある。この親子関係が好きだな。無駄話をしない。お互いに憎しみ合っていっるわけでもない。なんでも話し合える親子とかもいるんだろうけど、いろいろな親子がいて、世の中はおもしろいな。そういえば、島村の母はずけずけとしているようで、微妙な距離感をもっている感じがある。こころのソーシャルディスタンシング。(最近、こういうキモい文字列にはまってます。こころの~って大体、キモくなるような、ならないような、なるような。調べたら、こころのソーシャルディスタンシング=ソーシャルディスタンスなのかしら。外国人の先生がパーソナルバブルってことばをつかっていたけど、これはどっちなんだ。日本人はパーソナルバブルが大きいとか言っていたような。自己解決した。)

 

 島村と樽見の場面は島村視点。前は夏?だった川辺のデートスケッチ?スケッチデート?は今回は冬。空気感の違いが表現されているのだろうか。違いがあるのだとすれば、それは季節によるものか、失恋によるものか。なぜ、こんなことを思うのか?ふたつの絵を見比べてみたいと思ったからだ。挿絵があったが、樽見よりさらに後方からの視点の絵だったように思う。後でまた確認しよう。

 樽見視点の描写も読んでみたいというのは贅沢かしら。

 

 全編を通して気になったこと。島村の独白について丁寧語「です・ます調」、敬体がところどころに混ざっている。これは以前から、そうだったのか。9巻をもう一度見直してみよう。そして、その効果は?

 ぼくも最近、この日記の中で敬体を混ぜてしまっている。特に意図はない。なんとく敬体にしたほうがいいようなという感じですね。ずぼらなだけかも。たしか、始めのうちは()内で言い訳がましいことを述べる場合に限定していたはずが、どんどん用法が曖昧になっていって、その本来の目的を失い、適当になっていったかんじでしょうか。みたいな…

この「…」にも特に意味はない。タイプがめんどい時、ことばがみつからない時とか。

 ぼく個人の話はとりあえず、どーでもいいが、『安達としまむら』は独白について考えてみるのが、ぼくの場合は楽しい。

 

 ヤシロについて。以前、7巻だったか。ヤシロは島村の夢に侵入していると思ったが、10巻では島村の意識そのものにアクセスしていることを確認した。恐るべし。島村は幻視と思ったようだが。いずれにしろ、ヤシロはおもしろい、変な存在である。10巻でも述べられていたように幼い頃の島村の完コピ(死語?)的存在として、ヤシロを位置付け、この作品全体を見通すような解釈を成り立たせることはできるような気もしなくはないが、はたして、その解釈はおもしろいものになるだろうか、と想像してみると、こども時代の島村と現在の島村を出会わせることの意味はなんであろうか、という問いを誘発し、意外とおもしろくなりそうな気がしつつも、それはそれ、これはこれとして、ヤシロを島村とは全く別の存在として理解してみたい、と思えてくる。なぜか?ヤシロのことも、島村のことも好きなのだけど、どこが好きなのか、思い返してみるとそれぞれに別々の良さ、悪さが見つかり、それらを合わせてすきなのだろうから、別個の存在として見たい。気がする。気がするだけ…

 

 アニメにもでてきたあざらしのぬいぐるみについて。アニメ視聴時からぼくは勝手に「ゴマちゃん」と呼んでいます。こころの中で「あ、ゴマちゃん」でてきたって。10巻では3回くらい?ゴマちゃんがでてきたような気がする。