忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

感想

 『安達としまむら』5巻を読んで

 

 アニメでもみたいなと思う。ニアミスとかどのようにえがかれるのだろうか。川辺のスケッチ、花火の場面が楽しみ。

 それと花火について言えば、安達と島村がベランダで見た花火と日野と永藤が永藤の部屋で見た花火は同じもの?もし、そうならアニメではどうなるのだろう?1期ではこの二組はそれぞれ独立した描かれ方をしていたけれど。どうなるのか見当もつかない。同じ花火をみているはずなのに、二組の彼女たちの見え方は異なるだろうし、それに合わせて視聴者への見せ方も変わってくるだろう。それが楽しみ。

 

 面白かったところ

 安達と島村の電話の場面。声に出してということはなかったけれど、大いに笑った。別に安達の懸命に話す姿を想像して嗤ったわけではない。必死なひとの姿を見て嗤う文化があることはなんとなく知っている。作っているほうは大真面目でも見ているほうが茶化してしまうようなテレビドラマとかがあったように思うし、そうした視聴態度を見込んで、演出としてそんな見せ方をするドラマとかもあったりする。そういうものをぼくは嫌いということでもないが、まあ、なんなのだろう。「笑い」を求めてテレビをつけることはないってだけの話かもしれない。テレビというか、外部からの刺激ということか。いや、笑いと限らず、感動とかもそうかもだ。不意に訪れるのだと思う。なんの話をしていたか、忘れそうだ。脱線。

 では、なぜ安達と島村の電話の場面でそんなにおかしかったのか?島村のひと言がおかしかったのだ。安達の熱い思いを酌んで島村の口から出た「めんどうくさいなぁ」のひと言が。人間の持つ悪意のない残酷さに触れるとホッとし、こころが弛緩したときにもれる笑いとでも言えばいいのだろうか。このやりとりを見ても、島村は自分が考えている以上に幼馴染の樽見が好きな「しまちゃん」的要素があると感じる。高校生になった島村も「バカで、奔放で、無防備」で、残酷な「しまちゃん」な部分が残っているのだ。

 そして、この場面で書き残しておこうと思ったことがふたつある。

 ひとつめは安達はこころの中のあれこれをいろいろぶつけているようで、あの肝心なひとことは言わないこと。あとでそのひとことを口にするが、それはひとりで自転車をこいでいるときなのだ。そこがいいと思った。読者としてはいずれそのことばをじかに伝える日がくることを待ち望んでいるような、いないような曖昧な感じではある。

 もうひとつは島村が「めんどうくさいなぁ」と声に出して面と向かってこころの底から言える相手は、もしかして安達だけではないのか?という話。そのことに島村も安達も気づいていなさそうなところがとても好き。というか、このことは感想文で書くと随分と野暮な響きをもってしまう。これからはこういうことは書かないようにしよう。見せつけてくれるじゃねーか、とひと言で済ませばいいのかもしれない?

 恋愛に関する考察とかは苦手なのでぼくはやらないが、安達の欲望にこたえてくれない島村という在り方。これは愛なのだろうか?とかちょっとひっかかっている。愛のような気がする。まあ、物騒な話はしたくないので、具体的なことはなにも書かないけれど、最近といってももう3年も経つのか(事件の発覚からは3年ではない?)と唖然とさせられるが、例の事件なんかを見ても、人間ってよくわからん生き物だなと思う。彼と彼女たちの間には疑似恋愛があったのではないのか?疑似とあえてつけたのは、そうやってぼくも平静を装いたいからである。それでは社会はどうなのだろう?