忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

Jポップと『安達としまむら』

 『安達としまむら』 8話感想

 冒頭、メリーゴーランドに乗るふたり。きみたちの乗る馬のたてがみはゆれているか?そう、これはかの有名なaiko『カブトムシ』理論。きっとゆれていたはずだ。同じ理屈で、このふたりなら頑張ってこげば、自転車で『空も飛べるはず』。

 このノリは自分でやっていても辛い。止めた。

 

 シャーマン田岡先生の星座占いはなにをいっているのか、さっぱりわからない。

 

 社、君は知っているか?社をのせて地球は回っているということを。(『君をのせて』より)いや、のりながらまわっているのは社自身か。いやいや、それでも地球はまわっている。

 

 ところで、ぼくは悲しいよ。安達、きみは否定をしないのだな。勉強で失った糖分の補給をチョコでしているのか?と島村に聞かれて。でも、仕方ない。きっと、それどころではなかったのだ。優等生いじりなんか気にしている場合ではないのだ。

 

 個人的ハイライト 安達、きみの視線のその先には?

 しつこいくらいの安達の視線の描写はこのためにあったのかもしれない。

 体育館の場面、島村が安達に視線をやるとふたりは目があった?そう、あわなかったのだ。安達が見ていたのは卓球台。

 さっき見たばかりなのに、この場面での島村の独白を忘れてしまった。たしか、ふたりが季節に流されるのはしかたないと言っていたか。あとでちゃんと確認しよう。

 そんなきみたちに送る1曲。『卒業写真』

 たしか、この曲の歌詞では「人ごみ」に流されたような。

 でも、ぼくは『安達としまむら』のこういうシーンに出会うために見ているのだと思う。島村の「しかたない」ということばはどこか寂しい。そんな変わっていくきみたちを見ているとぼくにもそれは伝染する。しかし、この感覚は悲哀だけはないと思う。それはなにか?成長することで得られる前向きななにかと言われるとぼくは閉口してしまう。

 

 それとこの作品もひととひととが出会い、ひとはかわっていくということを丁寧に描いているのだなとあらためて思った。先日、この作品の系譜は残ってほしいとか書いたが、きっとこの心配は無用だ。

 出会いによってひとはかわる。そのときのひとの内面を描く作品。描き方が多様であることには違いないが、ひとの内面を描くのが文学という文学観はきっとオーソドックスなものだろうから、これからもこういう作品は出てくるだろう。それを見たり、読んだりするのがぼくの楽しみということだ。『安達としまむら』のような独白からうかがい知る作品も面白いなと思った。

 そういえば、まだ原作を買っていない。