忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

いくつかの断想

 『リゼロ』最新話「血と臓物まで愛して」

 1期の時もそうだった。たしか、レムとスバルの逃避行のあたりで退屈すぎて、途中で視聴を止めてしまった。で、2期になってよくわからないまま復帰し、お茶会のあたりからあまりの面白さに目覚め、見てない分含めて、1期を見直した。その失敗が生かされ、2期中盤も退屈だと感じたが、我慢した甲斐があった。感動したよ。ぼくにはコアなファンのひとたちの気持ちはわからないけれど、『リゼロ』のもつ退屈さと面白さの共存はすごいなと感じる。

 エルザさんへひとこと。戦いの最中によそ見をしてはいけません。いや、よそ見ではないか。だからこそいいのか。彼女はどことなく阿部定っぽく見えたが、まあよくわからない。でも、ともかく視線を外すところから絶命までの一連の流れが今期の個人的ハイライトかもしれない。

 

 『裏世界ピクニック』

 2期を見たい。行方知れずのひとが気になる。

 

 『ゆるキャン△

 やっぱ面白いな。ソロキャンだったら、ぼくでもできるのだろうか。

 

 いわゆる「異世界もの」について

 『SAO』をそこに含めていいのか?そこはわからないけれど、『このすば』を見るまで苦手なジャンルだったが、いまでは随分見方が変わった。苦手だったのは、『SAO』の主人公キリトがオタクの理想を体現しているみたいな話を聞いていたからで、実際見てみると確かにそんなふうではある、とオタクの自覚のないぼくには見えたわけだが、でも、あの全知全能感はどこか客観視されている?以前も日記で書いたようにゲーム内のキリトのほうがかっこいいのは当然として、そのかっこよさが現実に反映されないことを彼はよく理解しているみたいだし、そのことへの不満もなさげで面白い人だなと思った。

 まあ、思い切り脱線してしまった。

 今日、メモ書きしておこうと思ったのは、「異世界もの」と『安達としまむら』を全然違うジャンルと思って読んでいたけれど、共通するところもあるのかもしれない、そのことだった。7巻の話。宇宙人である島村と地球人?である安達が出会う話とかでてくる。まあ、そもそもヤシロは異世界の住人とも言えるかもだ。で、共通するとか、思い付きで書き始めてしまったわけだが、何が共通するのかまではなにも考えていない。なんなのだろうね?

 fateは「異世界もの」ではないよね。

 なぜ異世界を描くのだろう?現実の世界への違和感?『安達としまむら』にそれはあるのか?ないよな。『安達としまむら』で考えるなら、なんだろう。日常/非日常みたいな?非日常はヤシロの担当だったけれど、拡張しましたっみたいな?なんか、これも違うな。そもそも日常/非日常とかハレ/ケとか聖俗とかよわからんな。そういうわかりやすい性質のものではないような気がする。島村にとっても、安達にとってもふたりの出会いはなにか日常には収まりきらない感じがあるのだろうか?日常から少しはみ出したところにあるなにか?とりあえず、そんな感じに捉えてみようかしら。まあ、1期の不思議な映像に引きずられた解釈な気もするが、1期の時スタッフさんたちは先を見越して、つまり7巻の展開を見越して、自転車で空を飛ぶみたいな描き方をしていたのかと今になって思う。とすると7巻の位置づけに困惑するとか先日書いたが、あれは間違いだった。そういう作品ではないという思い込みが強すぎた。そういう作品でもあったのだろう。そういえば、安達にしても、島村にしても彼女たちのこころの声はすでに日常では受け止めきれない性質をはらんでいるような気もする。聞き手は日常にはいないだれかなのだろうから。いや、聞き手は日常にいる非現実的な存在か。ひとのこころの中で起きていることが日常には収まりきらない感じかも?うん、書いていてもよくわからない。

 そうしてみると1期でクラスメートの顔が描かれなかったのも、モブ感演出という意味だけはないのかもしれない。異世界感演出。これは考えすぎか。モブというか、クラスメートは他者ですらない。それを演出したのだと思う。

 

 まあ、ひとが異世界を思うってのがまずなんなのか、そこから考えてみないといけなかった気がする。