忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

メモ

 『安達としまむら』6巻がぼちぼち読み終わりそう。

 うーん、面白い。

 島村が蝉を手厚く葬る話は犬のゴンの話につながっていくのか。

 6巻の感想を書く前にメモ書き

 

 というか、ようやくわかったこと。安達には島村に出会うまで他者ということばに値する存在はいなかったのだな。ぼくはやっぱりこういう小説のほうが好きだな。何と比べて?そりゃーよくあるハートウォーミングホームドラマよりも好きということ。でも、家族関係の暗い部分を描きつつも、最終的にはそこを至上の幸福の実る場所と描くドラマがつまらないとか、薄っぺらいという話ではない。

 ものすごく誤解を招きそうなことを書くことになるが、意外と安達みたいなひとは世の中にいるのではないかと思う。ぼくも似たようなものだ。ただ家族に恵まれなかったというような話ではなく、別にそこまで家族の大切さを切実に語られても、ゲップが出ちゃうなみたいな感じ。家庭環境の不遇といっても、それほど悲観するようなものじゃないとか書くと変か。実際、そのことに悩まれている方も世の中にはいるのだろうし、無責任なことを書くわけにもいかない。うまいことことばにはならないものだ。

 ただ、島村に出会ってから安達の世界が変わったという感覚が伝わってくると、実に見ているこちらまで幸せな気がしてくる。

 安達にとっての島村はぼくにとっての犬だ。そんなものは幻想だよ、というひともいるだろう。たしかに、そうかもしれないが、最近思うのは、思い出の中に立て籠もって生きていくともできるんじゃないかということ。それも悲観するような話ではない。少々、変てこな方角に向かいそうなので、話を戻そう。

 彼(一緒に住んでいた犬のこと、何と記せばいいのかわからなかったので、「彼」と表記した。)と一緒に暮らすようになって変わったと言われると変わってねーよと内心思っていたが、変わっていたのかもしれない。ただ、そのひとがいったような意味で変わっていたわけではない。これ以上話を進めると、また変なことを書きそうなので、止めておこう。

 

 安達の気づいた島村の変化はきっと安達の錯覚だ。安達が考えているような意味では、島村は変わっていない。少なくとも6巻では。前から島村は優しかったのだ。それに気づくことができたのは安達が変化した結果に思える。やはり、島村は安達にとって初めての他者というか、人間なのだと思う。(島村の変化に着目するなら、きわめて表面的なことと思うが、樽見と再会して以降、よく笑うようになっているのが面白いとは思う。で、これも安達へのやさしさでは?)

 では、島村に他者はいるのか?

 いるということを示したのが、6巻だったのかと今のところ解釈している。それは樽見?これは違うと思う。島村にとってのそのような存在はゴンだったのだろう。とか書くと、我田引水すぎるだろうか。