忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

アニメ『安達としまむら』の「桜」のお話。 副題 記憶は思い出になるのか

 0時になったら、本気を出すとか思っていたら、時計の見間違いで、すでに0時を過ぎていた。ということで書いていこう。

 あとからつけた副題がネタバレということにツッコミをいれてはいけないぞ。

 

 アニメ『安達としまむら』最終話のラストーシンのセリフ。正確を期すため原作小説から引用する。「だからわたしは安達に『桜』を求める。その横顔にはきっと。」(p.238『安達としまむら』4巻)、この「桜」の意味がずっと気になっていた。それで、アニメ全12話を見直してみた。

 アニメでは省略された島村の独白の中に一応、答えらしきものがある。ついでなので、その独白についても紹介しておく。「暢気に毎日過ごしていられる時間も、けっして無限じゃないのだ。地面を埋める桜の花びらは、わたしの失われていく時間の象徴かもしれなかった。」(p.238『安達としまむら』4巻)この引用部分をどう解釈するか?これが答えに近づくはじめの一歩だ。という感じで、あてずっぽうに歩き始めてみるとしよう。

 まず、その独白からうかがえる島村の時間観について検討する。一見、「暢気に毎日過ごしていられる」という文言から、とりわけ「暢気」ということばから勝手気ままに遊んでいられる青春を連想し、青春時代には限りがある、と解釈しそうになるが、これは早とちりである。島村がここで言及している時間は青春期に限定されるものではない。そう考えるのには、それなりの根拠はある。

 作品の序盤で島村が蝉をねんごろに弔う挿話がでてくる。生命が逃れることのできないもの、すなわち、死にまつわる挿話だ。また、死はある種の予感として描かれているだけではあるが、老犬ゴンと島村の交流を描いた挿話もある。それらだけが根拠とはいえないが(その他にヤチーの一族の寿命の話、8億年だったかな?、あとは唐突に世間話として出てくる殺人事件などなど<死>を想起させる挿話は他にもある。)、島村には生の有限性に対する畏怖のようなものがあるのだ。生きとし生けるものには、いずれ、必ず死が訪れるという畏怖があり、そして、それが彼女の時間観に反映されている、と考えてみた。人生には終わりがあるという凡庸と言えば、あまりにも凡庸で、変哲ない感覚ではあるけれど、彼女の場合、特筆すべきところがある。ひとことで済ますなら、彼女の時間観はとても繊細である。

 その繊細さを端的に示すセリフを引用しておこう。

 安達と島村の会話のひとこま。いくつまでサンタさんの存在を信じていたか?という話になる。安達はおちゃめな勘違いをし、島村はそんな親切なおじさんの存在をはなから否定する。ようは、ふたりともいわゆるサンタさん幻想とは無縁な冷めたこども時代を過ごしてきたのだ。

 そこでの島村のセリフ

 「お互い、あまり子供やってないねぇ」(p.79『安達としまむら』2巻)

 さらに

 「でもさ、子供のときはもっとバカで、奔放で……あんなので、よく、生きていられたなぁって。呆れるよ……肩こりとは無縁なんだろうねぇ、きっと」(p.80『安達としまむら』2巻)

 これは、ぼくぐらいの年齢のおっさんのセリフではない。10代の高校生のセリフだ。別に、このセリフにリアリティがないとケチをつけたいわけではない。むしろ、逆。あまりにも、高校生島村のセリフとして生々しく、彼女にふさわしい。本作品における独白をのぞけば、一番好きなセリフはこれだ!、とか断定するのはちとおおげさな気もするので…

 いずれにせよ、島村は時間の流れというものに敏感であるがゆえに、あまりにもリアルで、残酷な真実を述べてしまう。時間は絶えず流れ、無意識にいつの間にか年を重ねてしまう人間の悲哀、それが彼女のセリフや独白からにじむ。そして、気がつけば、聞いているこっちが泣きそうになる。流れた時間、失われた時間、もう、あの懐かしい日々は二度と帰ってこない。そうだ。懐かしむことしかできないのだ。しかし、いずれはその悲哀からも人は解放される。

 彼女の繊細な時間感覚の背後には死というものが横たわっているのではないだろうか。過去をあれだけ繊細に回顧できる島村の視線。であれば、その同じ眼差しで未来もとらえている。そんな彼女が<死>から目を逸らしているはずがない。(屁理屈炸裂、飛躍気味)

 人間に与えられた時間は有限なのだ。

 では、その時間観を前提とすると、彼女にとって桜の花びらはなにを意味するのか?有限な生の中で失われていく時間の代償として、地面に積もっていくもの、それは記憶だ。桜の花びらのひとつひとつが彼女の記憶の欠片となり、思い出を構成していく。そんな感じにぼくは理解してみた。

 ところが、困ったことに、原作小説から導き出されたこの解釈、桜(の花びら)=記憶、はアニメ最終回視聴時にえた感覚とはかなりズレていた。

 なぜか?

 結論を先にいってしまうと、そのズレはアニメで出てくる桜のシーンは大きく分けて3つに分類されること、そのことによるものだった。

 

 ①心情描写として桜が舞い上がるシーン

 ②記憶として刻まれる桜が舞い散るシーン、そしてこれはa.回想の中の幻の桜とb.幻視される桜の2タイプある。

 ③アニメ内で現実に存在する桜のシーン

 

 ぼくは今回、アニメを通しで見直すまで、①と②を混同していた。

 その過程で、いくつか新発見があったので以下、そのことについてまとめておきたい。(「桜」のシーンをすべて記述するのはめんどいので抜粋にします。一応、確認できたものは過去の日記に全部、記しておきました。)

 

 ①心情描写としての桜が舞い上がるシーン

 5話 アダチズQ   

 初出。安達

 島村にお願い事をされる妄想に浸る安達。ひとりでニヤニヤしているシーン。楽しい気分を表現しているのだろう。以降、度々、舞い上がる描写が出てくるが、基本的には安達の高揚した気分を表現する。

 

 10話 桜と春と 春と月と

 安達×島村

 2年生になって、安達と島村のふたりはなんとなく疎遠になり、久しぶりに「しまむら」と声をかけられるシーン。この場面は重要だと思った。例外として、島村の高揚した気分を表現しているからだ。名場面ですね。

 

 ②記憶として刻まれる桜が散るシーン

 存在しないはずの桜の花びらが散るというきわめて幻想的なシーン。①のように心情を表徴しているだけとは思えないので、区別した。現実の桜ではないので、③とも区別している。

 

 a.回想の中の幻の桜の花びら、すでに記憶として刻まれている

 5話 アダチズQ

 初出。島村

 島村の回想。幼稚園時代の島村と樽見。島村の記憶の中に樽見はいるという証。

 

 b.幻視される桜の花びら、やがて記憶として刻まれる

 7話 私に相応しいチョコを決めてください

 初出。島村×樽見

 永藤の肉屋で偶然の再会を果たすふたり。なんと、そこにはないはずの桜が散っている!これはおそらく記憶として刻まれる可能性を示唆しているのだと思う。島村が異能力に覚醒したみたいな話ではない。

 

 10話 桜と春と 春と月と

 樽見×島村

 おそろいの熊のキーホルダーを購入したデートの帰りがけ、樽見が島村に話しかける。この場面でも幻視される桜の花びら。ここで重要なのは樽見の記憶になりうることを示唆している点。

 

 11話 月と決意と 決意と友と

 安達×島村

 疎遠になっていた淋しさから、おもわず島村に抱きついてしまった安達。この場面、安達の高揚した気分と理解もできそう。しかし、ぼくはそうは考えない。島村の記憶に刻まれるであろうワンシーンなのだ。

 

 最終話 友と愛と 愛と桜と

 安達×島村

 島村の記憶に刻まれることになるのだろう。

 

 ③アニメ内で現実に存在する桜のシーン

 10話 桜と春と 春と月と

 2年生の始業式の日。クラス分けの掲示板を見て、島村と同じであることに安堵し、はしゃぐ安達、それに気づく島村。作品内で桜の季節ということ。島村の記憶として刻まれるかもしれない。

 

 もっといい分類の仕方はありうると思う。

 それにしてもかなり微細に「桜」が描き分けられていたことに驚く。アニメ表現だから、違和感がないのだろうか。ここでは詳述しないが、心情描写としてはこの他にも様々な工夫が凝らされていた。

 

 島村にある欠落について

 島村には記憶はある。が、島村には欠落があり、今のままでは、記憶は思い出にはならない。ここでいう記憶とは思い出予備軍のようなものである。つまり、色づいていない無機質なデータとしての記憶という位置づけ。では、色づかせるのに何が必要なのか?アニメ最終話時点では彼女はそれに気づいていない。

 こういう仮説を立ててみた。

 必要なものは愛。愛が島村の記憶を思い出に変える。

 しかし、島村がそれに気づかないのは当然かもしれない。二つの意味で彼女は気づいていない。

 第一に、視聴者視点でこっちが気づいているだけという話。例えば、ある体験が思い出になると当事者も思っていなかったなんてことが普通にあるわけで、同じことが島村にも起きている。いちいち現在進行形で思い出になることを予期しつつ送る日常は変だ。回顧することによって、はじめて思い出が生まれるのだ。どーでもよいことではあるけれど、この意味で、小池百合子さんの「特別な夏」という語用はおかしかった。あらかじめ「特別」であると約束されるなんてことがありえない。まあ、美しいことば遣いではないってだけの話。(意志的な未来として「特別な夏」はありうるかもしれないが、ぼくは「特別」はやはり回顧して気づくものであり、そもそも不意に訪れるものだと思う。)

 第二に、安達と一緒にいるとなんだか楽しいなというその気持ちの正体に気づいていない。アニメ最終話では、という留保は必要ではある。

 この島村に関する仮説についてはまた考えみる。

 

 ちょっとだけメモ。記憶と思い出をわざと分けてみた。自分の頭の中で、記憶はただの映像、音声などの感覚のデータとしてある。なんで、それを思い浮かべるとなんだか悲しい気持ちになったりするのだろう?考えてみれば、不思議なことだ。

 過ぎ去った時間を惜しむ気持ち?ちょっと違う気がする。無為に過ごしてきたと思えることもあるが、その後悔というのはなんだか違う気がする。しいていうなら、時間は絶えず勝手に流れていくので、ぼくの意志がそこへ干渉できないからかも。時間を止める異能に目覚めたら、つかうのか?よく、わからんな。そして、きっと死もぼくの思い通りにはならない。

 余談めくが、写真ってものはおもしろい。あれは思い出の補助みたいな感じ?すごくぼくが人生(人生を語れるほどに長い年月を重ねてはいないが…)で後悔していることのひとつに犬の写真を残していなかったことがある。一枚しかないのだ。その一枚もぼくが撮ったものではないし、もうボロボロなのだ。なんか引き出しの奥から出てきたやつ。でも、写真をたくさん残していれば、それでよかったと思えただろうか?わからん。

 思い出の景色というとき、そこに人は立っていますか?問題。こじつけ気味に、愛が記憶を思い出に変えると書いた背景には、この問題がある。純粋に景色だけが思い出として残っているかを考えてみた。唯一、それらしいものは蔵王の星空なのだが、まあ、いいか。不在なら不在でも、いないこと自体に意味があるよね。

 欲張って、思い出の総取りをもくろむと、だれよりも長生きしなければならぬ無理ゲーが待っている。

 

 勝手にまとめ

 この文章を書いていて思った。島村から漂うどこか寂しい感じ。そこがぼくはたまらなく好きかも。島村のことが好きということではない。「文学の初源性」があるのだと思う。答えがでるかもわからない問題ではあるけれど、時間を主題として扱ったことにそれは関係があるのか?あるいは、だれかとともに過ごす時間であることが主題であるのか?繰り返しでしつこくなるが、人が寂しいと感じるとき、なにを寂しがっているのだろう。

 「桜」の描写に着目すれば、序盤はともかく、中盤から終盤にかけては島村が主人公になっていたのではないだろうか。すくなくとも、アニメではそう感じる。

 映像の引用の仕方、作法を知らないので、やらなかったが、映像を添えたほうがよかったかもしれない。なお、文章の引用を正確にやってるのかというとそれほどでもない。今後はそこらへんもちゃんとしたい。

 それと、冒頭で紹介した引用、「だからわたしは安達に『桜』を求める。その横顔にはきっと。」(p.238『安達としまむら』4巻)の「きっと」に続くことばについて、もうすこしだけ書いておこう。

 とりあえず、桜の花ことばを調べてみた。桜の種類ごとにあってちょっと感動。ソメイヨシノは「優れた美人」。山桜が「あなたに微笑む」。なんとなく、ぼくは微笑している安達が好きなので、それにしようと思った。

 きっと横顔には微笑みをたたえて。

 つまり!

 島村のとなりで微笑んでいてよ!

 

 ※少し文章を直した。