忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

寒い、はやいとこ、春よ来ておくれ

 桜のお話

 アニメ『安達としまむら』は映像的にも、脚本的にも桜を上手に生かしていた。無論、原作でも桜は大事な役割を担っている。なにしろ、主人公、安達のお名前は桜ちゃんだし。関係ないし、あまり好きな映画ではない、というか、苦手な映画だが、寅さんの妹は櫻で、「2階の女はなんたらかんたら」という寅さんによる妹紹介の口上?がある。

 いきなり話がそれてしまった。

 『安達としまむら』で桜は時間の象徴として出てくる。やや飛躍させてもらえれば、地面に散り積もる桜の花びらをぼくは記憶のかけらと解釈し、過去の日記に一応、そのことを記した。そこで、ちょっとだけ触れてほったらかした問題は桜と<死>の問題。

 

 以下、桜が<死>をあらわすことに関するメモ。

 いつごろからなのか、浅野内匠頭切腹するシーンは桜がバックにあるような気がする。気がするだけで、すべての作品を正確に確かめたわけではない。

 たぶん、もっと前から、桜は<死>の象徴として文学の中で咲いてきたのだろう。

 西行?もっと前なのか。

 靖国もか。

 散り様が美しいということなのだろうけれど。

 

 うーん。ぼくは咲いているのを見るのが好きだな。

 

 『進撃の巨人』とご時世

 ガビに見えるぞ。だれが?という部分を明言するのは止めよう。

 なんでだろう。不思議だ。作者がガビというキャラを造形した狙いみたいなものは多くの読者が理解できているはずなのに、実際、出来事が起きてしまうとそういう感覚はふっとんでしまうのだろうか。

 なんだろうな…

 ブッシュジュニアを戦争狂とか、ネオコンを戦争狂とか騒いでいた時もぼくは閉口した。

 今だとプーチンサイコパスと悪魔化する流れに掉させないのう。

 麻原の時もそうだったかも。まあ、ガキ過ぎてあまり記憶にはない。

 サイコパスだから頭の中を理解できない?そもそも理解する気はあるの?という…理解する≒賛意ではないわけで、ただ、理解を拒んでいるだけでは?という感じもする。まあ、こういうことを言うだけで誤解を招くだけになっているのか。しかし、書いちゃったし、残しておこう。

 プーチンの演説は一応、目を通したけど、一番、違和感があるのは歴史観だ。国家主義的?ぼくの好みではないというだけのことだ。こういう歴史観に酔っぱらえる人をうらやましいとは思わんけど、こういう人は常に一定数はいるでしょう。また、こういう流れは脈々と受け継がれるのだろうし、それを根絶しようって発想もやべーでしょう。