忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

「桜」の話とか、メモとか

 昨晩ようやく『安達としまむら』の1話から7話までを見直した。

 そのメモ。

 

 見直す中で気づいたことは「桜」の描写と限らず、随分と様々な手法で心情の描写がなされていたこと。

 

 田んぼが広がるあぜ道を自転車にふたり乗り、そして、ウユニ塩湖的描写に切り替わっていくシーン。これも心情描写のひとつだろう。明るい色調への転換。見ていて心地よい。

 

 空中に浮遊するものの描写。水滴、ヤチーの放出する謎の光の粒子、氷、お茶っ葉(紅茶)、雪が確認できた。氷は島村の心情の比喩。

 

 「桜」の描写について

 舞い上がる描写

 初出はおそらく5話。安達が島村にお願い事をされたら、どこまで引き受けるのかを妄想する場面。舞い上がる描写となっており、これは安達の気分の高揚をあらわしているのだろう。7話まで見た限りでは、以降の舞い上がる描写については安達の気分の高揚を表していると思われる。

 

 舞い散る描写

 こちらの描写は島村の思い出のシーンに重ねられている。初出は上記と同様に5話。樽見を思い出すシーンだった。以降、7話までは思い出の象徴として桜が舞い散る。7話でも肉屋で樽見と再会を果たすシーンでこの描写が入っていた。樽見が島村の心中で大切な思い出として生きていた証左であろう。

 

 原作小説4巻にある答え。

 島村の独白。「地面を埋める桜の花びらは、わたしの失われていく時間の象徴かもしれなかった。」(p.238『安達としまむら』4巻)アニメの描写でも、7話までは、散るシーンに関しては思い出を表しているので、原作に近い表現となっていた。

 細かい話になるが、島村の時間観が影響して、上記の引用部分は「失われていく」という表現になっている。4巻時点では彼女にとって時間は有限なものとしてある。したがって、過ぎ去った時間は「失われた」ものとなる。彼女にとっての時間がどんどん目減りしていっているイメージなのだろう。つまり、この彼女の時間観には死の感覚が横たわっている。ぼくはここに島村のある種の欠落を見る。って感じ。まー、よくわからん。考えてみる。読み直すときは島村にとって時間とはなにか?に着目するのもおもしろそう。たぶん、その時間観に変化があるんじゃないか?だれか、それをまとめてくれないだろうか?

 一方で、安達の欠落はわかりやすい。彼女に欠落しているのは他者だ。しかし、このわかりやすさは彼女が単純な人間であることを意味するわけではない。

 若干、語弊のある言い方に聞こえるかもしれないけれど、決して明るい話ではないのに笑えるってやっぱりいいな。

 そういえば、『桜の園』という戯曲も好きだった。

 

 8話以降はまた今週中に確認していきたい。

 居眠りしながら、見ていたので、見落としはあると思う。

 

 メモ

 『小林さんちのメイドラゴンS 』

 3話は見落としがあった。イルルのところも含めて、3話は神回だったという評価が正しかった。イルルの後悔、小林の自省からトールのひとこと、この流れが素晴らしい。まあ、書き忘れていたので、ここにメモ。あらためて、京都アニメーションはすごいと思う。

 

 なんか平野啓一郎さんに関する話題を見た。ぼくは基本的に自分により年齢の近い人をだいたい応援している。まあ、平野さんはぼくよりも年上なのだが、それでも許容範囲内なのだ。つっかかってくる党派性を装わない党派性丸出しの当てこすりなんか無視すればいいと思う。というか、平野さんはそうされているのだと思う。

 三島由紀夫作品の読みに関してはとても参考になった記憶あり。問題はぼくがあまり三島に関心がないことだ。

  もうすこしちゃんと書こう。

 先日、ぼくも今、五輪を中止せよというのは「贅沢は敵」的発想とは書いたが、それを茶化すのはちと変だ。

 あるツイートの主旨。今、五輪中止を叫ぶ小説家は戦争中だから小説禁止と言われたら従うのか、云々。そして、それにおちゃらけた調子で相槌をうつひと。なんだろうな。その小説家が平野さんを意味するのかは知らない。が、それらのおちゃらけたやりとりには反吐が出る。

 まず、むかついたのは、そのノリ。マジで、そう思っているの?と。実際、戦争が始まったら、こころの中ではどう思っていようと、世の趨勢に流されるってことはあるのではないの?

 例えば、中野重治なんかはどうやって戦中食いつないだのか?それでも、食いつないで、幸いにも生き残ったから『五勺の酒』という小説が残ったのではないか?(三島同様に中野重治もあまり好きな作家ではない。)

 ぼくも冷笑系といえば、冷笑系なのであまりひとさまのことは言えないわけだが。こういうマネはできないな。茶化すにしたって、ガチでそう思っているの?って疑問がまず来る。自分がそうは思えないなら、やっぱそんなことは口にしない。彼らは茶化せるだけの度胸があるということかもしれない。

 まあ、でも戦争とコロナ禍は別物だという考えにますます近づくきっかけにはなった。

 

 別のことを思い出した。

 感染拡大局面が自然に収まるのをできるかぎりのことしながら、例えば、ワクチン接種、待つみたいなことを政治家がいうのはまずいの?待つしかないのなら、そう言えばいいとおもうのだが…ぼくはやっぱ政治音痴なのかもだ。