忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

ある時代の記録、メモ

 脈絡のない凄惨な事件について

 「太陽がまぶしかったから」という理由では納得できない人が出てくるのはわかる。しかし、警察からリークされる情報に物語を読み込むことには違和感がある。言うまでもなく、公判が始まるとまた検察はひとつのストーリーを語ることになる。そして、そこからまた世の人々はそのストーリーに注釈をつけていく。いわゆる思想家とよばれるような人までつい数年前の事件でいかにもなストーリーを新聞寄稿で語るのを見て、まいった。それが契機ではないが、紙の新聞にお布施するのは止めてしまったので、今でもその種の寄稿が新聞にあるのかは知らない。

 もう、この種の事件が起きるたびに何かを語りたくなる人の気持ちを抑えることもできないだろうし、ブログやツイッターという手段で語ることはこれからも続くのだろう。ぼくはそうしたときにあるブログにお邪魔していたのだが、ここ数か月更新は止まっているっぽい。ツイッターはたまにまとめて拝見するが、いまでも続けられているようだ。この事件ついてなにか言及しているかもしれない。

 話がそれてしまったが、ぼくには単純な疑問がある。自分で自分のことを語れるのか?という疑問。自供の物語性への懐疑というと語弊があるかもしれないが、まあ、ややこしい問題ではないか。語るほうの問題としては自己を正確に語りうるのか?という問題。読むほうの問題としてはなぜそこに物語を発見するのか?という問題。

 結局、ぼくも物語を見つけようとしていることがあるわけだ。ひとさまのことをあれこれいえんな。

 

 閉会式は見ようと思ったら終わっていた。見れなかった。

 中止は間に合わなかったようだ。

 

 それにしても蒸し暑い。もはや夜に散歩しても、昼と変わらん気がする。気がするだけだが。

 

 「桜」の話は今日、書こうと思ったけれど、見終わって、メモしただけでなんだか充実感があって、サボってしまった。明日こそ書こう。