忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

当たり前の寝言の記録 40年後に憶えていたら

 この日記はだれに向けて書いているのか?

 自分に向けて書いてのいるのだと思う。未来の。やっぱ、読み返さないのはダメかもしれない。一応、前回(ひとつ前くらい)まではことば遣いの間違い等について、気づいた範囲で直してはいるけど、内容までは読みかさえない。

 

 だんだん、めんどうになってきただけの話ではあるが、時間論は40年後にまた考えてもいいのかもしれない。時間感覚については一日の長があるような気がする。40年後のぼくのほうがきっといいはず。なぜか?回顧のほうがおもしろいと思っているからだろう。懐古趣味ではない。しかし、未来よりも、過去のほうがおもしろいという感覚自体がたぶん、学生のときにはなかったと思うな。

 

 必ずしも、人である必要はないが、だれかの死に接した経験がそう思わせるのかもしれない。変わってしまった街とかでもいいのかも。

 

 関係ないことを思い出した。2021東京五輪は個人的にはほぼ楽しむことはなかったけど、東京という街は変わったのだろうか?これだけは興味がある。ぼくの感覚的にはたいした変化はないように思うが、たとえば、代々木が日常空間であったりしたら、ちがうのだろうか。三省堂が閉店する話とかも、あった。東急本店もなくなるのか。

 しかし、変化というとき、そういうものだけでないような。

 押井監督の映画が好き、とぼくがいうとき、そこにはこの感覚がある。1964以前の東京の記憶がある人はおもしろいなと思うのだ。ぼくはまだ生まれてすらいない。野良犬がいて、電柱がない東京を見たことがないのだ。

 だれの目にもはっきりとわかる変化ではない変化。そこへの洞察の有無。優れた作家によって、映画でも、アニメでも、ドラマでも、写真でも、絵画でも、なんでもいいので、なにかのかたちで残るといいのにと思わんでもない。

 記録映画は河瀬監督?前は市川崑?見たはずだが、なんも覚えてないな。(1964東京五輪を見ていないので、当たり前といえば当たり前か。)

 

 近所にお地蔵さんがたっているのだが、その数は年々、少なくなっているのだろうか?

 

 見てもいないのにあれこれ書いちゃうのは反則な気もするが、そこは無視して書いちゃうと、『平家物語』の語り部が未来視、重盛が過去視はおおよその見当はついた。これは年齢の問題だろう。若い語り部には多くの未来が残されているので未来視。それとは反対に、史実通りにすすむ展開であれば、死期の近い重盛には未来はほぼ残されておらず、過去ばかりあるので、過去視。そういうことになっているのではないだろうか。

 上記の内容に重なる。歳を重ねたほうが時間論、とくに回顧という行為に対する洞察が鋭くなる、とぼくが推測するゆえんである。

 

 しかし、この感覚はすこしやべーかもだな。アニメを見ていないのに、アニメを楽しんでしまっているような錯覚。しかし、アニメで重要な映像をまったく見ていないので、実際にはダメな文章である。ということで、今から見るのが楽しみ。