忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

アニメにおける「リアル」について考えてみた

 先日書いた文章は実際には「リアル」について頭の中でごちゃごちゃになっていたので、その整理を目的として、メモを日記に残しおく。

 

 ①世界観の構築

 作品内で担保されるリアリティ。階段で2階から1階に転げ落ちても、かすり傷ひとつ負わないという設定などなど。その線引きをどこに置くのか?というのが「リアリティライン」と呼ばれるものなのか?そのラインと現実世界との距離感が近ければ、近いほど~~みたいな傾向ってあるのだろうか?

 ひとつ気になることが出てきた。時間感覚についてのリアリティラインは意外とどの作品も現実世界に近いものばかりではないか?スルーしようと思ったが、書いておこう。映画『ビューティフルドリーマー』がおもしろいか、どうかはひとまず置くとして、根本的な失当があると思う。青春の中にいる現実世界の住人には押井監督の時間感覚よりも漫画『うる星やつら』の時間感覚のほうが近い。ぼくは高校生のとき、おっさんになるなんて思ってもみなかった。でも、ほっときゃ勝手にそうなるわけだ。説教くさい中年のノスタルジーを表現した映画というなら理解はできるし、その点についておっさんになった今なら楽しめるかも。(『ビューティフルドリーマー』は監督が33歳のとき作品だったみたい。それを知り、さらに納得。30過ぎたら、中年なんだわ。別にため息の漏れるような話ではなくてよ?!)それにしても、当時の若者があの映画をおもしろいと思って見ていたのなら、おっさんくさいひとが多かったのか?それとも寺山修司の『サザエさん』論以外に、別に文脈があるのか?

 世界観構築に欠かせない要素として「リアリティライン」というものがあるという理解でいいのだろうか?

 

 押井説に対する疑問。ある場面とそれとは別の場面に引かれたリアリティラインに違いがあると見える場合、そして、アニメにおける嘘としてあらわれる場合、それを作品の欠点といえるのか?

 あえてずらしたと見ても、いいのでは?整合性を失ってでも、逸脱してみせた意味を考える。とか。「あえて」と書くと意識的なものに見えるが、無意識的なものも含めたほうがいいかも。

 もっともラインがブレブレな場合、なにこれ?意味わからんってなるか。

 

 ここまで書いて思うのは、ぼくには「リアル」という問題意識が現状、稀薄。アニメを見ているときにそこはあまり気ならないというか、なんというか。前は気にしていたかも。視聴態度に変化があったのか!!

 

 ※ポストトゥルースがなんたらみたいな話をぼくはまったく知らないので、その文脈で「リアル」が重要とかなのか?あまり、興味がわかない。

 

 ②印象的なシーン

 「リアル」なアニメーション映像については、たぶん個人的な好みの問題に帰着しそう。

 現実世界の複写みたいなものを「リアル」と感じる人もいれば、

 作品の世界観の中での「リアル」を大事にしたものを「リアル」と感じる人もいる。

 

 ぼくの個人的な体験としての印象的なシーンとの出会いは、そういうものとはちょっと違う。「リアル」か、どうか、その際、あまり関係がない。

 事後的に、「ああ、自分はこういうものを見たかったのだ」と思わせてくれるシーンなのだ。先験的に自分の頭の中にはそのあるはずのない理想形が「あった」のではないか、と。これは、もちろん錯覚で、そして、もうひとつ錯覚する。ぼくだけではなく、ほかのだれかの頭の中でも同じ混乱がおきてるではないか、と。つまり、自分も、みんなも同じシーンで感動しているかもしれない、そんな思い込みがある。

 それにしても、現在のアニメーションの表現力はすごい。現実世界では太刀打できないくらいひきこまれる。その表現をなんと形容すればいいのか、わからないので、暫定的に「きめ細やかな描写」とか「過剰なコントロール」ということばをあてていた。なにか、いいことばはないだろうか?

 でも、これは絵を描き始めた人間の宿命のようにも思える。現実以上に魅力的な世界をつくろうと、どこかでなったのだろう。人類の初期の絵がなにを目的に描かれたのか、知らないので、間違った思い込みかもしれないが…

 というか芸術ってものがそもそも、そういうものなのか?

 小林秀雄がこどもがクレパスを海に捨てる話をどこかで書いていた。(『考えるヒント』だったかも?)その話をぼくは好きだったが、誤読していたかも。

 眼前に広がる現実の海の青を表現できるクレパスがこの世に存在しないから、こどもは癇癪をおこしたと考えていた。これは間違った解釈で、現実よりも美しい海を描くことができない怒りをクレパスに、海にぶつけていただけなのかも?(そんなこどもはいるわけがないというのが小林の話ではあったが…)

 うーん、ますます混乱してきた。

 美しいアニメーション。美しい現実世界。日常ではどっちも楽しめるし、そうすればいいのだけれど、それでも、やっぱり度肝抜かれるようなアニメーションがある。この現実世界をどこを探し回っても出会えないようなやつ。そして、そんな映像をぼくは見たかったんだとさも以前からそう思っていたかのごとく、錯覚させるのだから、不思議だ。

 あと、印象的なシーンを自己点検するとけっこう楽しい。たいていの人が自分のことをキモってなるはず。キモって自分のことを思える感覚のなにがいいのかは、よくわからないが、とりあえず大事しておきたい。

 あれ?なんの話をしていたのだっけ?

 もうひとつ不思議があった。そういう印象的なシーンがひとつもないアニメもおもしろいことがあるのだ。

 名ゼリフがひとつもでてこないアニメでもおもしろいみたいなことか?まあ、でもぼくはいわゆる「名ゼリフ」連発アニメは苦手なことが多い。連発するとひとつひとつの効果が…いや、そもそも名ゼリフってなんなのだ?アニメに限った話ではないが、「リアル」なセリフと自然なセリフは別物という話か。たぶん…だけど、「リアル」なセリフまわしってつまらない。余談。