忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

なんとなく感謝、いろいろな方に

 アニメを見るようになって以前よりもネットを覗くことが楽しくなった。

 昨日もはてなブログの『安達としまむら』のファンの方の日記を覗かせてもらった。すこし感動した。その方々の熱量が伝わってきて。略称で「あだしま」か「あだむら」か、とかぼくは考えたことがなかったし、その他にもいろいろと勉強になったところもある。そのブログの著者から感じることはそのひともひとつの世界をつくっているという点。ちなみに、上記の方にならって、略称で記す場合は「あだしま」で行こうと決めた。さらに余計なことを書くと、島村については自分なりに「島村」表記と「しまむら」表記を分けてきた。キモい自覚はあるが、ぼくが文章内で呼び掛ける時は「しまむら」にしている。前にも書いたがそもそもひらがなが好きなので、なんとなく自分が呼び掛けるなら「しまむら」かなと。「しまちゃん」とはならない。また、安達についてはあだ名で呼ばれることへの拒否感がありそうなのでどのような場合においても「安達」表記にしている。思えば、こうした「読み」を可能にするのも、小説という文字形式であればこそのものであり、作者だけではなく、それに気づかさせてくれた『あだしま』ファンのブログの方に感謝。

 ただ、まあ、ぼくは元から仲間意識とか連帯感の共有みたいなものを意識的に避ける傾向にあるので、そういう感じではなく勉強させてもらうみたいな態度でいつも読ませてもらっている。コメント欄に何かを書き残してくるみたいなことをしないのはそのため。

 

 まあ、ツイッターなんかでもそう。ぼくがツイッターを覗くだけで、自分がやらないのはぼく自身がやってもなんのコメントもせずリツイートだけやることになりそうだから。そういえば、ツイッターを覗かせてもらっている人のブログが復活していて、すこし嬉しかったな。

 くどいようだけれど、ツイッターも勉強させてもらっているみたいな意識で見ている。

 

 直近の目標としては『安達としまむら』の感想文はちゃんと書こう。

 まあ、自分でもよくわからないけれど、久々に闘争心が湧いてきた。あれ?闘争心とか元からないな。そもそも勝ち負けみたいな感覚がなにかにつけ稀薄だし、ではなんだろう?まあ、なんでもいいか。ともかく、感想を書こう。気が向いたら。

 というのも8巻についてこの間のメモ以上のことは書けそうにない。

 とりあえず9巻読もう。それと『やがて君になる』の小説のほうを今日買ってきた。この作品も入間さんによるものなので楽しみ。

 

 あ、これは書いておこうか。

 アニメ→小説の順で『安達としまむら』に入門したぼくは小説を読んでいるときも映像化されたら、どんな感じだろうみたいなことは意識して読んでいる。この文章の読み方はアニメを見るようになってからの変化で以前は全くそういうことはテクストを読む際に気にしていなかった。加えて、『安達としまむら』の場合、映像化の際に声がどうあてられるのか?みたいなことも意識して読んでいる。声色とかだけではなく、専門用語でなんというのか知らないけれど、重ねてくるのか?とか。まあ、声色に関しては声優さんに詳しくないので、そのへんはよくわからないところもあったりはする。

 

 あ、全然関係ないことをひとつ。

 ぼくがジャンプを購読していた時代は時期的に量的な観点からは黄金期の終わりのほうになるが、正直、ジャンプアニメに限らず、今のアニメのほうが面白いのかも?と思う。バトル漫画の原型がつくられたとかいろいろと漫画史的に見れば一概にそうとは言えない部分もあろうが、今のほうが話は複雑化してる感じ。あれ?そうでもないか。

 まあ、ちょっとこのことも百合作品を考える際にも気を付けてみよう。『安達としまむら』なんかも、1巻で提示された作品の持つ空気感みたいなものは8巻時点でも維持されていて、それもやっぱり作品の良さにつながっているように思うので。『やがて君になる』だと小糸が醸し出す空気に近いもの、ヤシロを除く登場人物に共通してある空虚感かな?ちと違うか。こういう書き方は好みではではないが、こころのある部分がすっぽり抜けている感じ。で、その部分はひとよって異なる感じ。

 逆かも。人間に欠落があるのではなく、世界にそれがあるのかも。寂寞としているのは世界のほう。