忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

これだからネット社会は…

 そうそう、「ゼロレクイエム」ということばを目にした。

 昨日、ネット社会で自分が好きな作品に関する他者の文章を読めることへの感謝を書いておきながら、今日はそのアクセス性の良さゆえか、知りたくないことまでわかってしまう利便性にどうしたものかと愚痴りたくなる気持ちを抑え、マガジンを買いに行ったら売り切れており、もういいやと半ば自暴自棄で少しだけ結末を調べたら、ぼくの予想というか、読みが大外れだったと知った。『進撃の巨人』の話である。

 ぼくはエレンは真意をかたらないと思っていた。そのことにはいつだったか、日記にも書いた。エレンの行動はすこし意外だった。

 

 読んでいないので感想は書かない。きっと読んでも感想は書かない。まず、以前も書いた通り、書きたいことは書いてしまったような気がする。もう少しちゃんと説明するとぼくはこの作品を思想劇、あるいは政治劇としては見ていない。人間ドラマとして見ていたので、正直、あの世界の結末には関心がない。作者がどのような形であれ、作品を終わらせたことに対する敬意だけがある。

 ただ、調べてみて思ったが、「ゼロレクイエム」という評言は適当であろうか?世界に嘘をついたという共通点?幼馴染の手で葬られたこと?まあ、ぼくは『反逆のルルーシュ』をちゃんと見てないからなのか、ちと違う気がする。

 葬ったのは幼馴染ではなかったが『ヴィンランド・サガ』のアシェラッドや『樅ノ木は残った』の原田甲斐のほうがルルーシュには近い気がする。

 やっぱり読んでからのほうがいいか。いや、書いちゃおう、ネタバレされて冷静さを保てていないので。ミカサなんだよね?だとすると世界を欺くという点ではなく、エレンが救われたという点にアクセントを置くほうが自然な読み方になるのではないだろうか?『喰霊 零』がそんな終わりだった気がするな。まあ、なにかに終わり方が似ているというのはどうでもいいことかもしれない。

 でネタバレ見て気になったのは

 ①エレンが過去に干渉していたこと

 エレンは他者の「自由」はどうでもいいのか?まあ、あまり考えても仕方ないことだったかも。

 ②その干渉はミカサに葬られる結末に収斂するように行われていたのか?

 それで気づいたことだが、未来視できるということはリアルタイムのエレンの実人生には常に既視感が伴っている?とすれば、既視感のある人生における「自由」ってなんなのだろう?こーなってこーなってこーなるんだよなと分かっている道を歩む人にとっての自由ってそもそもありえたのだろうか?ミカサによる救いによってはじめて自由を手にしたってことなのか?(既視感のある人生はけっこう考えてみると面白いかも?ただ、ぼくは目下別作品の読解に勤しんでいるので、だれか進撃のコアなファンのひとの批評を読みたい。別に既視感云々にこだわりもないが…)

 明日買いに行くか。

 ところで、ぼくはネタバレされてもじつはそれほど怒ったりするような性格ではない。なので、今回も実のところはあー見ちゃったなくらいの感覚だった。

 

 それと思想劇として見た場合は以前にも少しだけふれたが、「造悪論」の問題は提起されていたと思う。