忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

勘違いの記録など

 今日はアニソンを聞きながら、部屋の掃除をしていたわけだが、見たことはないのに、聞いたことがある気がする数曲。テレビでけっこう使われているからなのか。しかし、あまり、テレビを見ないので、やはり実際には聞いたことがない曲なのだろう。それか、アニメは見ているので、その間のCMで聞いたことがあるのか。

 大雑把な好みとしては聞いていると頭がゆるくなりそうな曲が好き。(もちろん、ほめことばとして言っている。)歌詞はあっても、なくてもどっちでもいいかもしれない。

 ただ、実際、OP、EDとして見た場合は映像も大事な要素だと思う。意味不明のダンスとか、まじまじと見てしまう。目を奪われるのである。

 以上のことをまとめると好きなアニメの曲が好きということかもしれない。『あだしま』はOPのほうが好きだった。(聞いていると頭がゆるくなりそうという意味ではない。)あと、『青豚』のEDが好きだったかも。

 

 掃除しながら考えたこと

 過去をどう理解するのか。とくに、幼年期を思い出したとき、なぜ、クソガキだったころは今よりも伸びと伸びと生きていたような気がするのか。今になってみるとそう思えるってだけの話かもしれない。当時は当時でしょーもないことでくよくよしていたはずで、今、このときも、20年後に思いかえしてみると、あのときはバカだったな、と島村のように回想するのかもしれない。

 つまり、ズレがあるということだ。実際の過去と思い出の過去との間に。これは、一体、どういうからくりなんだというのが、ずっと気になっていたことだ。

 そして、このズレは過去だけでなく、未来に対してもありうる。未来が意志や予測として存在する場合に限られるかもしれないが、ここで前述の話につなげると時制意識というものは常にこのズレが伴うのだろうのだろうか…みたいな話。

 島村は過去を見る。安達は未来を見る。ヤシロには過去も未来もなさそう。というか、ヤシロには時制感覚があるのだろうか。

 安達の未来への祈りが大雑把な方向性としてはいい感じなのに、なんだかちょっとだけずれているのがいいのかも。席替えのときとか。

 時制というものはおもしろい気がする。

 あやしい方向に話をすすめると生きていれば、こんなはずでは…という局面に出くわすこともあろうかとは思うが、そのとき人はなにを思うのか。当人の未来予測とは大きく離れたときにもれる感慨。自分のあずかり知らぬところで、そうなっている感覚。導き?運命?

 島村のいうなぜバカなのに生きてこられたのか?もそうかもだ。いずれにしろ、入間さんの描き出すこの種の感覚は鋭いなと思う。

 

 そういえば、『あだしま』10巻の敬体についてすこしだけ、考えたのだけれど、敬体に関する一般的なこと以上にはなにもいえなさそう。しいてあげるなら、やはり、安達ではないだれかへの呼びかけなのだと思う。この話は以前にもかなりしつこくしたので、割愛。