忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

感想とか

 『安達としまむら』 10話

 友人の髪の毛の色が変わっても、それを指摘することはない?

 まあ、ぼくは指摘しないな。

 

 太陽ではなく春なの?

 「桜と春と 春と月と」は安達と島村、島村と樽見ということか?なぜ島村は春なのか?安達にとっては太陽、樽見にとっては春ってこと?いや、樽見にとっても太陽だから月ってことではないのか?よくわからん。先週、書いたように島村は本人が思っている以上に馬鹿で無防備なところはあると思う。それは島村は本人が思っている以上に温かみのある人間ってことになる?だから春とか太陽?やっぱりよくわからん。馬鹿で無防備がなぜ温かみになるんだ?書いていても訳が分からない。

 クラスの中における島村と安達や樽見にとっての島村は別ということか?それはそうなのだろう。大体、ひとは1対1の関係の在り方と集団の中におけるあり方は違うものだ。

 それはそうと原作を買ってきた。とりあえず8巻まで。まだ1巻も読み終わっていないが、ぼくは結局のところこの作品の何を見て、読んで楽しんでいるのだろう。ぼくはたぶんこの作品が男の子ふたりが主人公でも見たと思う。まあ、今日のところはこれ以上は書かないでおこう。

 やっぱり、ちょっとだけメモ書き。この作品については行間を読むというようなことがない。特に主人公ふたりついては。また、ミスリーディングを誘うようなこともしていないと思う。しかし、ただ字面を追っているとか、声を聞いているということでもない。うーん、何を見ているのだろう?

 ところどころに挟まれるサービスシーンがなくても見ただろう。なので、それが目当てということもない。

 

 日野のことがなんとくわかってきた

 日野の家と家族が出てきた。日野は日野でいろいろとややこしいことになっているのだな。日野の明るさが何に由来するのか、それが少しわかったような気がする。

 

 ヤシロがいたほうが、ぼくは面白い

 ヤシロについてはもうちょっと考えてみたいと思う。吉本隆明の『西行小論』を先日読み直して少々思うことがあった。西行は童を歌に詠んでいるんだな。前は気にも留めなかったのに、再読して気になってきた。『西行論』もまた読み直してみようと思う。押井守の『天使のたまご』なんかもその線で見てみるほうが自然な気がしなくもない。こどもが元気よく走りまわっている話。熱烈な押井ファンには怒られそうだけれど、それでいいのではないか?スタジオジブリの作品なんかも、思えば、そうかもしれない。自分が幼いころはこどもが走りまわっている絵が動くことににこころ躍らせていたのだろう。ただ、そこに生命力の輝きとか、純粋さだとかを感じていたわけではない。すくなくとも、自分がこどものころは。自分も映像の中のこどもたちと一緒に動きまわっている、そんな錯覚にとらわれていたのだろう。これは時間があるときに日記に書こう。あと、ロリコンってなんなのだろうと『西行小論』を読みながら思ったのだった。

 

 サボってピンポンはもうしないのか?

 これはちょっと意外だった。ピンポンアニメではないのだから、それはそうか。