忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

批判の有効性 サブカル編

 昨日の日記で扱った記事に関連する内容でもある。たしか、作品に対する批判、批評の「ワガママ化」だったか。読んでいてなるほど、とは思った。

 で、今日はまた別の記事を目にした。『スーパーカブ』に関する記事だった。この作品のにあらわれる「リアル」な感じについての解説には大きくうなずいた。アニメーションが可能にするきめ細やかな表現力が醸し出す「リアル」は現実以上の魅力がある、とぼくも思う。ところが、記事内で、『ひげを剃る。そして女子高生を拾う。』との対比が始まったあたりから、よくわからなくなった。タイトルからフィクションであることを示唆した『ひげを剃る。そして女子高生を拾う。』は問題視されず、なぜ『スーパーカブ』は批判されたのか?作品のかもしだす「リアル」が逆にあだとなったと筆者は考えているようだ。そこから、リアリティラインの話、「リアルと嘘」のせめぎあいという流れで論を運んでゆく。その手際は見事で、細部ではうなずけても、どこか腑に落ちない。

 反論の意図があるわけではない。たぶん、ぼくとは出発点から違うのだ。そのことを今日はメモに残しておこう。

 

 毎度のことながら構成とか端からないわけだから、つらつらと書いてみよう。

 

 ある作品について自分が文章を書くとき

 作品の本質を無視すれば、ある作品をほめることも、批判することもたやすい。つまり、ある作品の本質、あるいは、主題にふれる批評、批判はちょっとだけめんどいのだ。その作品の本質を自分で吟味する必要がでてくるからだ。それを「読解」という人もいるかもしれない。ことわるまでもなく、その「読解」には「正解」はなく、しいていうなら、作品にふれた人の数だけありうる。余談だが、ぼくの場合はその読解を批評と呼ぶことにしている。できるかぎり作品の本質から外れることがないように自分ならこう解釈すると述べる、それがぼくの考える批評だ。一般的な「批評」とは意味がすこし違うかもしれないが、それほど変なことば遣いでもないと思っている。

 前振りはこのへんにして本題に行こう。前振りではなく、いきなり結論を書いてしまったようだが…

 

 アニメ『スーパーカブ』における道路交通法違反

 リアルタイムでこの件が話題になっているのは知っていたが、この日記では扱わなかった。それはなぜか?道交法違反であるという批判が有効ではないと思ったからだ。それによって作品に対する客観的評価が下がる点は否定しない、というよりも実際、下がったと思う。それでも、その批判は作品の本質にはふれていない点をおさえておく必要があるのではないか。

 たとえば、『スーパーカブ』が法を主題にするアニメだったら、そういう批判にも有効性があったはずだ。法を守る、破る、どちらが主題であっても、きっとおもしろい議論に発展しただろう。

 ところが、この作品はそうではない。むしろ作品の本質からすれば、ふたり乗りは必要な描写だった。カブを手に入れることで変わる世界、そのひとこまとしてのふたり乗り。道交法違反を指嗾しているようにも見えない。そんな演出意図がないためだろう。

 商業上の理由で削除あるいは改変という判断はあり得たかもしれない。でも、それはぼくの判断することではない。「炎上」したほうが儲かるのか、どうかも知らない。儲かるのだとしたら、ちょっと下衆いかも。とはいえ、結局のところはなにもわからない。うーん。でも、作品の本質からずれたところで話題になるのを儲かるからと、喜ぶ製作者っているのだろうか?そんな人はいないのでは?まあ、考えても仕方のないことは考えないにかぎる。

 あまりふたり乗りのシーンの記憶が残っていないので、これを機会に見直してみよう。というのは、フィクションなんだから、ふたり乗りくらい見逃せという意見も作品の本質にはふれていないので、的外れに思える。

 作品の本質に添いながら、あくまでも擁護するなら、(そういう擁護はそもそも要らない気もするが、)道交法違反であっても、ふたり乗りは必要であったという理路になるはずだ。それに見合うだけの説得力のあるシーンになっていたか?作品として問われるのはそこだろう。

 今日読んだ記事に対する違和感もここにある。この作品が問題視されたゆえんは、リアリティラインについて視聴者との間に齟齬があったからではなく、交通違反いたる描写に説得力がなかったからではないか。ぼくなら、こういう推測になる。(こういう推測すら必要ないと思うが)

 

 漫画『進撃の巨人』で「地ならし」によって人類の8割が消えた

 この件についても話題になっているのは知っていたし、これまた日記ではスルーした話題だ。理由は『スーパーカブ』のときとは違う。自分の中で結論をもっていないからだ。人類の8割を殺すなんて許されないという意見にぼく自身はおそらくいたらない。真逆になりそうだ。だが、しかし、そういう批判は有効だと思う。作品の本質にはふれているからだ。

 『進撃の巨人』の結末への批判として、エレンのやったことは許されないというものはかなり重要で、そうした批判がネットでも量的にかなりの規模であったことはさらに重要だったかもしれない。

 この問題でもフィクションを根拠に論理を展開して、あの世界でなら許さるというのは逃げになると思う。まあ、逃げたっていいかもだが。リアリティラインを盾に弁護するするのもおかしい。

 その点をきちんと論ずるのはまた別の機会にして、そろそろまとめに入ろう。

 

 風呂に入ってわかった。

 当該記事への違和感は押井監督のいう虚実への違和感かも。あらかじめ言っておくと、『スカイ・クロラ』はわが青春の映画で、監督の作品はけっこう好きだ。しかし、彼の虚実にまつわる問題意識がぼくには了解できない。

 『スーパーカブ』におけるふたり乗りは実にしか見えないし、『進撃の巨人』の「地ならし」も実にしか見えない。虚というものがありうるなら、それは魅力的に映るだろうとは思う。が、はてさて。

 うむ。ぼくもたまに「上手に嘘をつく」みたいなことばをつかってしまう。でも、これはぼくの変態性からくるのだ。上手な嘘で騙されたい。でも、それって結局ぼくにはわからないし、わかってしまったら意味がない。こんな思いに駆られるのはぼくが身の回りの人や犬に恵まれたからかも。おそらく、犬と一緒に暮らしたせいだ。彼がなにをしゃべっているのか、ほぼ理解できなかったが、嘘はなかった気がする。だから、そうではないものへの憧れかも。そういう話なのだ。押井監督の問題意識とこれが重なっているのか?押井監督も犬好きか。

 

  まとめ

 メタな話をするつもりはないが、ある記事への反論という形式はやはり書きやすい。

 あああ。思い出しちゃった。小論文のテストで困ったとき、テーマに対するある意見を想定して、それへの反論形式で書いていた。この方法、おススメです。点数は保証しません。当世、流行りの「ストローマン論法」ってやつだったのかも。今思えば、そういう文章はおもしろくないから、点数が低かったのだろう。

 まあ、それにしたって、反論形式で文章を書くのは練習にはなる。屁理屈も自分で考えねばならず、構成なんかも練れば、さらによかったかもしれない。

 

 ※当ブログはおべんきょう指南を目的とはしておりません。