忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

メモ

 歴史について

 江戸時代~明治維新~昭和の戦争~高度経済成長を通じて、日本は2回のネイションビルディングに成功したというお話をツイッターで見た。そのような激動の時代にあって、日本人の本質に変化がなく、であるので、次の変化にも日本人は対応できるというのが論旨であるのか?

 論旨とは関係ないところでよく理解できない部分がある。江戸時代のシステム不全から明治維新は始まり、成功し、昭和の戦争が失敗に終わり、一連の流れが完結したことで、次の成功である高度経済成長につながっていったという見方なのだろうか。おおざっぱにとらえて、失敗と成功の循環があるということなのだろうか?

 さて、その見方を踏まえると、現在はどう見ることができるのだろうか?新たなネイションビルディングが要請されているのか?よくわからない。よくわからないというのは、だれの目に見てわかる失敗が存在しないからか。オウム事件、大震災、コロナ禍、あるいは、「失われた30年」は日本社会の行き詰まりをあらわしているのであろうか。

 歴史をどう語るのかという問題か。たとえば、上記の明治維新以降、昭和の戦争でいったん切断せず、現在までも一貫した流れとして見た場合、決定的な成功も、決定的な失敗もない、と後世の歴史家は見るかもしれない。しかし、後世の彼らとは異なり、現代を生き、今が変革のときであると考える人は、その必然として、現在の日本社会が行き詰っていると語るのであろう。

 が、ぼくの根本的な疑問はそこにはない。歴史を見るとき、そこに成功と失敗の循環を見る態度にある。歴史の流れはひとりの人間の視点から、成功であったとか、失敗であったとかいった視点から語られうるものであるのか?この日記にも以前、書いた記憶があるが、歴史とは過去の失敗を学び、現在に生かす学問である、みたいな態度(愚者はなんたら、はその典型)がぼくは嫌いだ。歴史からハウツーを取り出すことに対する違和感。その失敗やら、成功やらの渦中で、過去の時代に生きた人々は後世の人のハウツーのために生きていたわけではあるまい。ぼくにできることがあるとすれば、小林秀雄風にいえば、「思い出す」ことだけではないだろうか。たとえば、自分が生まれていない時代のことも頑張って思い出そうとすること。こういう小林秀雄の説教くささはなんなのだろうな。数冊は捨てたけど、何冊かはいまだに手元に残してある。読み返すこともないような気がするけど。

 

 歴史について考えるなら、そもそも「日本の」歴史である必要性はどこにもないわけで、そもそものツイッターの論旨とはズレていたのかも。

 

 あ、先日書き忘れたことを思い出した。

 弓道が殺し合いの技術を磨くものではないとすれば、日々の鍛錬が本旨で、試合はなんなのだろうと思ったのだった。ぼくは弓道はやったことはないから知らないが、経験的にいって、部活動はだいたい、練習が本番で、試合はおまけなのだと思う、とか書くと怒られるちゃうだろうか。

 まあ、でも例えば、プロスポーツとの違いはそこにあると思うけど。『キャプテン翼』がプロサッカー選手に人気なのは試合の話ばかりしているから?見たことないので、わからん。

 そういえば、北京五輪がきな臭いことになっているのか。ぼくの見方は東京五輪に対する態度と同じ。民間の事業者が自分たちで判断すればいいと思うが、東京五輪以上に北京五輪開催にぼくは反対だ。やるなら、勝手にしてくれという以上の思いはない。