忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

さっき気づいたこと

 犬はぼくから食生活の面で影響を受けた。その結果かは分からないが、一般的には長生きした。いや、長生きではあったのだろうけれど、寿命を縮めたかもしれない。

 一方で、ぼくは犬から生活態度の面で影響を受けたのかもしれない。ぐうたらになったのである。できればそういうことにしてくれないだろうかという気づき。願望か?

 

 メモ

 『安達としまむら』8巻まで読み終わる。

 大人になったふたりが出てくる。海外旅行にふたりで行ったみたいだ。

 あと修学旅行の話。詳しい感想はまた今度書きたい。霧の場面はすごくいい。ここで離ればなれになったら二度と会えないのではないかという感覚。こどもの頃の迷子になったときの感覚みたいな感じだろうか。二度と家に戻れないじゃないだろうかみたいな。まあ、霧の場面で大事なのはそういうところではないか。後日ちゃんと感想を書こう。

 7巻で出てきた異世界とのつながりはよく分からない。

 あとこれは全体を通しての感想になるが、ヤシロと島村の関係性か。ヤシロに性別なんてあるわけないじゃないか、とはならない。ヤシロは女性である。そう考えないとだめなんじゃないか。で、安達と島村の関係性の違いが見えてくるはず。

 忘れそうなのでメモ。島村とヤシロは似ている。島村と安達は似ていない。

 似た者同士と似ていない者同士?似ていない者同士って変なことばだな。

 もっと変なのが似ていない者同士が似通ってくる問題。今日の冒頭の犬とぼくの話はそれ。生活を共にするってそういうことなのか?

 それと8巻で特筆すべきことはサンチョ、パンチョ、デロスの3人組はモブではなかったこと。パンチョとの会話を通して島村の恋愛観の一端が明らかにされた。安達も島村も自身が女性を好きであることについて、それこそふたりの間では意識されていないふうではある。自己規定の性としてはふたりともおそらく女性。で、周囲の目線が存在する場合、島村は自分たちの恋愛が同性愛であることを意識するみたい。安達にはそれがない。安達にはなぜそれがないのか?安達には周囲の目線が存在しないから?島村以外は今のところ他者ですらないということか?

 あと、島村がついに安達の欲望に少しだけ応えた。この部分を見るとやはり安達は男子高校生の女性化ではないと思える。

 

 百合作品に対する見方

 二転三転している。

 話を簡略化するため生物学上の性については考慮しない。以下の話は全て自己規定の性についてのみ。

 自己規定の性から異性愛と同性愛の質的な差について

 直感としてあるのはその質的な差があることと『やがて君になる』や『安達としまむら』の面白さは関係しているということ。(異性愛を描く作品よりも優れているという話ではない。まさに質の違う面白さがあるのだと思う。また同性の友情を描くものとも違う。)

 はっきりとここがこう違うとか言えたら、そもそもこの文章は書かないわけだが、やっぱりなにかが違うのだと思う。

 なんといえばいいのか。こういう作品を読んでいると自分の中にある同性愛的ものに目覚めていく感じがある。目覚めてというのは比喩ではなく、その感覚はすでにある眠いっていたもので、ああ自分にもその感覚はあったぞという感じ。で、さっきも書いたかれど、友情とは明らかに違うもの。もうちょっと大げさに言ってしまうと同性愛のほうが恋愛としては本質的なのものあるんじゃないかと。いや、それは違うかな。同性愛も異性愛も時間をかければ近似していくということか?

 

 別の方向から見てみる。

 自己規定上の女性同士の恋愛であることに関係はあるのか?

 こういう話もジェンダー問題に引っかかるのか?まあ、気にしてたら書けないか。

 関係ある気がする。男性と女性の意識の差みたいなものか?

 まあ、書いてみないことにはわからんので書いてみる。

 『ゆるキャン△』の世界が嘘八百みたいな見方自体が男性的なものじゃないのか。

 

 自己規定上の男性同士の恋愛ものも見てみないとだめか。

 たぶん、百合作品とは違うものなんだろうなという予感。

 

 『裏世界ピクニック』

 空魚の「この変な女」発言

 「この変な男」だとぼくのこころにひっかかることはなかったように思う。そこから考えるに同性間であるがゆえに生まれる感触があるという仮定。

 「この変な女」は友達に向けて言っていたのか?そうかもしれない。でも、ぼくには空魚は恋をしているように見える。なんでだろうね?

 

 百合について日記に書いた以上は自分なりにこの辺のことは考えていきたい。