忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

昨日のメモを書きながら頭にうかんでいたもの、その他

 悪意なき残酷さについて その2

 吉本隆明にはこれがあるなと思った。ぼくが彼の書く文章を好きな理由はいろいろとあるが、そのひとつだった。彼はなぜかはよくわからないが、自分の読者にさよならする、されるようなことを言える。すごいなと思う。

 島村に関心を持ったのはぼくの吉本への関心と重なる部分があるのかもしれない。(安達にも同じくらい関心はある。というか登場人物みんなに関心がある。)

 

 もうひとつ思い起こしたのは、北野武映画。これはどうなのか?よくわからんな。全然関係ないが、宇多丸さんの映画時評をyoutubeで最近、聞いている。はじめは自分が見たことがあるものに限定して聞いていたのだけれど、それほど多くないので、見ていないものも聞いたりしている。映画の勉強になっているのかはよくわからないが、面白い。話を聞く限りの印象では男子校出身に思える。自信はない。

 

 成長とは言えないように思うって話

 安達の変化を成長譚と見るか、否かはひとまず置いておくとして。

 島村が安達との交流を通して、どう変わっていくのか、その変化を成長とは言えないような気がする。なんと言えばよいのはわからないし、本当に変わるのかも、今ところは分からない。まだ読み終わっていないので。

 

 作品に込められた社会に対するメッセージに関心がないという話に関連すること

 長くなりそうだから、メモのみ。

 以前にネットで見かけたあることば(誰の話であったかは忘れた。ツイッターだったかもしれない。)

 社会が生み出した悪がその汚い社会の中でその汚さゆえに解消される話は好きというようなことだった。ぼくも同じように好きではあるが、きっとそういう話を現代社会に投影しない。いや、そうでもないか。(そのひとが投影しているか、どうかはわからない)

 社会から生み出された悪を人々の綺麗なこころで浄化するみたいな話は感動するけれど、苦手とさらにことばは続けられていた記憶がある。こっちのほうにはより共感できた。そんな話は見るひとのこころの綺麗な部分をくすぐる。そのくすぐり方がうまければ、うまいほどに、嘘くせーとはならないにせよ、ぼくは逃げたくなるからだ。

 で、こんなことを書いていると思うのは、結局ぼくが気になっているのは内容ではなく、文体や映像表現のほうなのかもしれないということ。「意は似せやすし、型は似せ難し」みたいな話をしていたのは小林秀雄だったっけ?(要確認)