忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

安達へのひとこと

 『安達としまむら』 9話感想

 よその犬がどうかは知らないが、うちの犬は馬鹿でもなければ、おあずけをくらって大人しくするように従順でもなかった。だが、安達が言うように安達自身は馬鹿に見えないこともない。いい馬鹿さ加減だ。

 

 2月14日、なぜ島村はよく笑っているのか?

 口の動きから「たるみん」と予測したが、「たるちゃん」だったとは。

 樽見と二人で出かけた島村はすこしは安達の気持ちを理解したということになっているのだろうか。翌日の島村は安達と一緒にいるとき不自然ではないが、笑うようにしていた。自分と一緒にいる時、重苦しいと安達が思っているかもしれないと気を遣ったのだろう。もしそうなら、これは島村の杞憂だ。

 いや、「たるちゃん」と声に出してみて、その声に振り返る樽見を見て、なんだかうれしくなって、翌日もその気分いいモードが継続した状態だったということか。

 よくわからない。こういう部分は後日原作で確認してみたい。この他にもいろいろ勝手に解釈しているので、原作とどれくらいずれていたのか、確認するのが楽しみだ。

 

 花びらが落ちたり、舞い上がったり

 その時の気分をあらわしているのだろうか。これもよくわからない。

 

 ふたりの会話を聞いていて

 リアルな会話か、どうかは分からない。ただ、自然な会話だとは思う。どこらへんが自然かというとお互いに相手を笑わせようという意図がないところ。でも、話しているうちになんだか楽しくなってくる。会話ってそういうものだとぼくは思う。だれかを笑わせようと、今から面白いことを言うぞオーラ全開のひとの話はきっと面白くない。(余計な話だが、ぼくがテレビで「お笑い」を見ない理由のひとつはこれである。)きっと、そんなひとも滅多にいない。そんなこともないか。そういう状況はあるかもしれない。どうしようもなく悲しい時、これが笑わずにいられるかという時。

 ともかく、このふたりの会話はいいなと思ったのだった。それと、スマホでのやりとりは安達⇔島村は丁寧語、島村⇔樽見はタメ語(死語?)という発見があった。度々、このふたりは会話でも丁寧語になったりしている。でも、丁寧語であることがふたりの仲の良さをあらわしているようでもあり、面白い。

 

 ひとは変わらないものであり、変わるものである

 島村の言うとおりだなと思う。ひとにはなかなか変わらないとか、変われないという思い込みがありながらも、長い目で見ればずいぶんと変わっているものだ。で、その変わり方にも内実というものがあるのだろう。それは分裂していくということなのだろうか。ちょっと自分で書いていても、よくわからない。ただし、これだけは言える。島村が思っている以上に馬鹿で無防備な「しまちゃん」要素は今でも残っているはずだ。(分裂しただけなので残っているというイメージ)このへんも原作を読んでみたいと思わせる部分で、原作者のひとの描き方にとても関心がある。

 それと島村というひとをどう見るのかという話。親密な人間関係を避けるというよりも、本人がいうように擦り切れて疲れているひとに見える。なにに疲れているかはひとではなく、繰り返しになるが共同幻想なのではないか。