忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

ツイッター観察日記 その1

 現在のオタクに関する考察をツイッターで読んだ。主旨としては、かつては作品への愛の深さをアピールするのに知識量でマウントの取り合いをしていたが、ネット社会の出現によって、知識にはだれでもアクセスできるようになり、知識量で愛の深さの違いを示すことができなくなった結果、独自の考察と解釈や使ったお金の多寡で愛の深さを示すように変化していったということらしい。特に異論もない、というか、ぼくは自分がオタクである自覚がないせいもあり、オタクがどんな性質をもっているのかは知らないので、反論のしようがないわけだけだが、このツイートに3.6万の「いいね」がついていることには驚いた。まあ、3.6万が多いのか、少ないのかもよくわからないが。

 作品に費やしたお金の多寡を語るのがツイッターではよくあることなのか?よくわからないが、ぼくはそこには何も書きたいことはない。それよりも独自の考察と解釈云々のほうには関心がある。どこからは話を始めようか。

 文学観でぼくが影響を受けた、というよりもほぼそっくりそのまま考え方を頂戴したのは吉本隆明のものだ。彼の文学観は多くのひとに作家の書いていることを自分「だけ」は分かると勘違いさせるものが文学だ、という話だったと思う。文学がそもそもそういう感覚を触れたものに想起させる性質のものということだろう。なので、独自の考察や解釈を示すのはオタクに見られる特有の傾向ではなく、広い意味での文学作品に触れたひとの一般的な傾向、とぼくには思える。自分はある作品の「~が面白い」という話を100人がしたら、各々が好き勝手なことを言うのはなにも不思議な現象には見えない。

 むしろ、社会批評的な文脈で作品が語られる場合、例えば、現代社会で『鬼滅の刃』がウケる理由とか、女性に、あるいは男性に『鬼滅の刃』がウケる理由とかについて語られる場合のほうが変なものを見せられた気になる。これはオタク的発想というよりもマーケター的発想のように思うが、その論者の現代日本社会に対する洞察がそもそもの前提とされるため、そこにある程度の確度がないとぼくは素直に受け取れない。ところが、ぼくはその論者の社会に対する見立てに信頼を置けるか、どうか、判断することが自分の力不足もあって、多くの場合できないので、わけの分からん話を読まされた気になる。それなら、オタク的発想なのかもしれないが、そのひとの作品に対する愛を語ってくれたほうがぼくには面白い。ただ、繰り返しになるが、作品への愛を語ることはオタク特有の仕草には思えない。

 さらに余計な話をつけくわえると、自分「だけ」が理解している作品の考察・解釈も実際には個性的でないことが多く、ぼくのこの日記のこれまで書いてきた感想も含めて、たいていの場合、ありきたりなことしか書かれていない。だからこそ文学と限らず作家はすごいのではないか。ありきたりな感想しか書けないぼくに、ぼくだけが…と勘違いさせるのだから。そんな作家で連想されるのは、ぼくは好きではないが、太宰治だろうか?みんなの私的『人間失格』像が数多ありそうだが、どれも同じような像を結びそうではある。(太宰ファンをディスっているわけではない。)

 では、どれもこれもみんな無個性な考察や解釈なのかといえば、そんなことはないだろう。例外はある。ふたりくらいは独自の考察・解釈できるひとが頭に思いうかぶ。ふたりどころではないかもしれない。有名どころを上げるのなら、本居宣長だろうか。彼の古典読解は個性的なのではないのか?現在の「オタク」のご先祖様といえば、そうなのかもしれない?宣長が現代にいたら、ネット社会の隅っこのほうで『リゼロ』論とかぶち上げていても違和感はない。なので、きっと探せば現代の宣長もこのネットのどこかにはいるのだろうし、ぼくの愛読するブロガーさんにもそんな感じのひとがいる。ただ、そんなひとはきっと愛の深さをだれかと比べたりはしないと思う。もっと自分の欲望に忠実にオタクライフを堪能しているのではないかとオタクではないぼくは思うのだ。そして、軽薄だなという自覚がありながらも、ぼくもそんなひとに触発されて、あれこれに興味を持ったりするわけだ。で、そんな軽薄さをこころのどこかで肯定したいと思っている。

 見かけたツイッターから随分と話が逸れてしまったが、まあ、気にしない。でも、面白いツイートがあるものだなとあらためて思う。ただし、今のところぼくはツイッターを始める予定はない。また、その2が書かれることもおそらくない。