忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

思い出した

 『佐々木と宮野』の雰囲気

 ぼくも月並みに『安達としまむら』を連想したのだけど、初回の雰囲気から大分、違う。いろいろ見ることで何のどこに自分が魅かれたのか、わかったりするもんなんだな。『安達としまむら』の初回の終末感。体育館に取り残されたふたりみたいな感覚は『佐々木と宮野』にはない。まあ、ぼくはそういうどこか寂しい感じがすきなのだろう。入間さんの作風が好きということかもしれない。

 

 アニメオタクという自覚はあまりない、というか、考えたことはないが

 先日、「じぇいりべらる」であるぼくはわりと全方向的に嫌われていると書いたが、ぼくはアニメファンでもあるため、フェミニストにも嫌われているのだろうか。これも仕方ない。

 『宇崎ちゃんは遊びたい』がやり玉に挙げられていたのは知っている。しかし、その批判は作品の内容に対してではなかったような。これはぼくの勘違いか?

 日常系「美少女動物園」ものに対する批判もあるのだろうか。寡聞にして知らず。ゆるふわの生ぬるい優しい世界みたいな解釈は見たことがある。その見方を否定はしないが、的外れとは思う。そういう作品もありはするが、非常に少ない。『けいおん!』と『ごちうさ』くらいしか知らない。そして、それは日本文学のいち系譜であると思う。

 例はなんででもいいのだが、『ガルパン』は賢姉愚妹ものという理解が適切だろう。この相克は見た目の絵柄とは関係なく、熾烈なものがある。自由奔放でバカな妹に姉が内心では嫉妬しているみたいなわかりやすさはない。西住姉妹はどちらも幼稚な理屈に依ってぶつかる。その幼さは興をそぐことはない。人間にはいくつになっても、この種の幼さを手放すことなく、ぶつからなければならぬ局面があるのでは?という気がしてくるのだ。幼いというよりも単純というべきだったか。

 『のんのんびより』も「駄菓子屋」(人名)の存在とか、東京からくる転校生とか、憧れの東京へ行く田舎者の姉とか、どこまでずけずけ書いていいのか、わからなくなってくる。

 脱線した。内容そのものが批判されているケースがあるのか、それが気になった。それと、もうオタクということばになにかしら特別な意味を見出すような時代ではなくっているような気がする。

 

 ※『スーパーカブ』が道交法違反で批判されていたのは知っているが、よく理解できなかった。作品の根幹に対する真っ向からの批判ではなかった。