忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

もう少し書いてみよう

 5話を見ての感想ということになるが、これまでにも『安達としまむら』には家族は出てきていた。安達の母が出てきたときの回もけっこう印象深いやりとりがあった。そこで感じたことは安達は家にいても、学校にいても、同じような顔をしているのだろうということ。安達は彼女の母がいうように「何を考えているのかわからない」、自分の意思表示をはっきりしないひとなのだ。ここでぼくが着目したのは意思表示がうまいこと出来ない、ひと付き合いができない安達という点ではなく、家にいても、学校にいてもたいして変化がなさそうな点だった。その解釈が妥当か、どうかもあやしくはあるが、これって結構すごいことだなと。家族も島村を除いた学校の人間も安達にしてみたら同じような存在であるのか?と。安達の家族観のようなものが垣間見えた回だった。また、このとき、しまむらについても同様のことを思った。

 それでは5話について書いてみよう。冬の早朝に家の前で安達が待っていると妹に教えられた島村は妹に早く学校に行きなさいとうながした後、安達を自宅にあげ、安達、島村、島村の母が同席する中で朝食をとる。この場面が非常にいいなと思ったのだった。朝食を急ぐ様子がいいなと思ったのである。余計な話をはじめそうな母を警戒した?安達に気を遣った?そこらへんはよくわからないが、この時、島村にも家族間とはまた異なる何か大切なものが安達との間にあるのだろうと感じさせてくれた。

 そのことをどうことばにすればいいのか。数日考えてみたのだけれど、これといって適切な表現は見つからない。前回は「家族関係では補えない何か」と書いてみたのだけれども、しっくりこない。困ったものだ。こういう言い方だと家族の埋め合わせようなものとして安達が存在しているかのような誤解を与えかねないという意味で問題がある。繰り返しになってしまうが、安達が少し前向きな雰囲気を醸し出せるようになり、笑顔でひとと接するようになれる何かなのだ。こういうことはきっと家族にはできなだろう。安達と島村は家族ではないからこそできるのだ、とぼくは思いたい。

 

 補足 その1

 ロールプレイとしてのこどもをやっていないという主旨のしまむらの発言

 

 補足 その2

 吉本のことばの中でも好きなもの。「親があっても子は育つ」正確な引用ではないかもしれないが、「親はなくとも」ではなく、「あっても」とすることの意味。自分が何をしてきたのか?と問われれば、子育てをしてきたと答えるといっていた男の発言である。なので、その意味が重要であるとぼくは思えるのだ。そういえば、このことばはどの本に載っていたのか。記憶の彼方過ぎて、探しようもない。