忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

説明過多な作風に対する批評というか、批判について

 今期のアニメの感想をネットでのぞいていて、別々の作品であったのだが、同じようなワードで同じような批評をしているのが散見された。なにか、これはネタ元があるのか?と気になり、調べてみたら、それなのかはわからないが、それらしい記事を見つけた。

 当該記事の筆者の主張の妥当性に関しては、正直、ぼくにはよくわからない。ただ、直感的にはかなり正しいことをいっているように感じる。

 行間を読めない視聴者、読者が増えているのは近頃の作品の説明過多によるという主旨。そのいち例としてモノローグ(独白)があげられており、そこでなんでもかんでも説明しちゃうということなのだろう。

 まあ、先日『安達としまむら』の独白の特異性について書いたから気になったのだ。『安達としまむら』の独白も上記のような意味で説明過多だろうか?彼女たちの心理を説明的に描写しているとはいえる。で、それが小説だけではなく、アニメでも延々とつづく場面もあったりするのだから、説明過多といえば、そうなのかもしれない。でも、それは「読む」という行為の解釈次第ではないのか?

 具体的に説明していこう。『安達としまむら』の小説の場合、地の文で展開される独白と会話文で構成される。ここで読者には様々な「読み」が許される。あらすじだけを追っていってもいいし、地の文の独白と会話の内容の比較、検討を丁寧にやりながら、読み進めてもいい。なぜこのことばは独白でなければならなかったのか?一方でなぜあれは会話でなければならなかったのか?などなど、いろいろな切り口で検討していくと見えてくるものがある。たとえば、世界観などがそれだ。説明過多な文章が多くのことを語りうるかは読みに依存する。つまり、説明過多な文章が必ず読者に甘えを生む構造になっているとは言えないのだ。

 

 もう少し別の例を挙げてみよう。『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』のほうがこの問題を考える際、より適した作風だったかもしれない。主人公である比企谷八幡はこれぞ説明という独白をよくしている。特筆すべきは、その情報量である。説明過多なのだ。しかし、それも読者、視聴者に理解を促すためだけになされているわけはない。作者は意図的にうざいくらいしゃべられせているのだ。その意味を考えることも「読む」という行為に含まれるのではないか。

 

 繰り返しになるが、ぼくは当該記事の内容について、つよく異論をとなえたいわけではない。ただ、あまりにも汎用性の高いワードとして様々な作品を評するのに使われるのが心配になったのだ。このことに限らず、ある種の汎用性をもった批判の作法が氾濫するネット社会はぼくにはちと薄気味悪い。取り越し苦労かもしれない。そうだといいな。