忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

関係あるのだろうか

 窓拭きしながら考えたこと

 『安達としまむら』のふたりの少女の独白について(原作を読んでいると日野や永藤についても独白があり、それも面白かった。)

 拭きながら、ぼんやりと思い出していたのはイゾラド族最後の生き残りの男性のことだった。彼のことばを理解できるものはおそらくいない。それでも彼ははなし続けていた。見ている限りでは、よくわからなかったのだけれど、彼には話が通じていないという自覚があったのだろうか?もしそんな自覚があったのだとだしたら、彼はなぜ話していたのだろう?あるいは、だれに話していたのだろう?聞き手などいなくてもひとは話し出すものなのだろうか?よくよく考えてみなくても、それはあるように思う。日々それはやっている。電車に揺られながら、布団の中からぼんやり暗がりを眺めながら、ごはんを食べながら、だれかの話をききながら、こころの中でひとり、ぶつぶつあーでもなく、こーでもなくとやっている。この日記も似たようなものではあるかもしれないが、少し違う。この日記には読み手がいるのだ。ぼくはまず第一に自分に向けて書いていることを意識しているし、それだけでなく、特定の読者を想定しているわけではないが、だれかしらの目は意識している。(自分に向けて書いているわりには、ぼく自身がほぼこの日記を読み返さないことに問題がある。)そのだれかとはお天道さまのような存在のことだろうか?どうなのだろう?混乱してきた。ただし、ぼくの中ではっきりしている部分もある。そういうことばはまさに彼女たちのようにこころの中だけで囁くようなものではないのかということだ。日記を書く限りにおいて、だれかに読まれるようなかたちでなされたら、それは台無しではないか。

 彼女たちの語りとも関係ありそうとは思ったものの、どうなのだろう。読者を除けば、彼女たちのこころの中でうまれることばを知るものはいない。当たり前の話だが、彼女たちは読者を意識するわけはないので、だとしたら、彼女たちは本当に孤独な語りをしているだけなのか?どうにも、それだけには思えないというのが今のぼくの感想で、このことはしばらく考えるのは止めて、放置しよう。そうでないと、なんとも集中して読むことができないのだ。

 

 11話を見たが、面白かった。

 感想は明日にでもちゃんと書こう。

 ということで、メモ。まあ、いつも感想はメモ書きみたいなことしか書いていないが。

 「月」は安達のことだったのか?まあ、島村を太陽と言っていたのは安達なので、「月」が安達であったとしても不思議ではないかもだ。

 

 意を決して教室に戻ってきた安達と島村のやりとりがどことなくぎこちなかったのが、なんでだかはわからないけれど、見ていていいなと思えた。高校の時をうまく思い出すことはできないのに、あえて言ってしまうと恋情にせよ友情にせよ押しつけがましい何かがないと相手との距離は縮まらない。その記憶はどこか黒歴史的なものを含み、封印しておくほうがぼくの精神衛生上は好ましい気もするが、この作品によって、その封印は解かれたということか。これが面白さの代償かと逃げ口上でしのいでしまうのが自分の悪い癖か。

 

 「以前の安達だったらこういう言い方はしない」と電話をしているとき、島村は言っていたが、その島村が気づいた変化にぼくは気づかなかった。島村のほうが安達と接しているので、それはそうかと思ったのだが、島村の気づいた変化はなんなのだろう?

 

 11話の最後はとてもいいところで終わっていた。続きが気になるとはまさにこのこと。ぼくは原作で確認できるが、我慢する。見てしまったら、来週の楽しみがなくなる。いよいよ最終回か。