忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

メモ

 最近のアニメの傾向とかは知らないし、その傾向から社会を読み解こうみたいな意図もない。第一、そういうことに興味がない。

 それでも気になっていること。

 価値観の対立を描き、そこにドラマが生まれる。そういう作品における価値観にはそれほど作者は意味をもたせていないのではないか、という気がする。というのは、こういうと失礼になるかもしれないが、『スターウォーズ』のころから対立軸があまり変化していないではないか。その変奏というか、なんというか。ちなみに、ぼくは『スターウォーズ』をちゃんと見たことがない。

 ところで、だから、つまらないということならない。物語に抑揚をつけるために価値観の対立を必要としているだけで、それ以上の効果はなく、主題は別にあるという見立て。なので、つまらないとは限らない。

 とっつきやすく、理解しやすい対立図式を作品に持ち込むのは受け手の間口を広げるのだろうか。ツイッターを見ると、そういう話題を好きそうな人が一定数いるようには見える。

 ぼくはこの話題に向いていない気がしてきた。対立する話が好きではないということではない。平和ボケをしているとは思うが、そういうことではなく、価値観を共有していても、対立する話のほうが好きかもしれない。喧嘩する理由がなくとも、どういう訳か、数奇な運命をたどり、決裂するみたいな。わかりやすい例をあげると失恋話とかはこの系統か。もちろん、イデオロギー対立から破局するふたり組がこの世にいてもいいとは思う。でも、そういうお話はおもしろくない。ただ、別れた理由を聞かれたら価値観の違いと答える人はけっこういるだろうな、とは思う。

 しかし、リベラルによるリベラル叩きをネットで少し前に見かけたが、これはおもしろくなかった。かれら、叩いたほうにも、叩かれたほうにも、どちらにも切実さがあったとしても、ぼくに偏見があって、そうは見えないからだろうか。おおげさな知的遊戯にしか見えない。そんなつまんないことでいちいちつっかかるのかと不思議に思う。それに現実的ではない、きれいごとばかりいう政党や言論人を一定数、必要としているのは日本社会のほうだと思うし、また、それは生活の知恵みたいなものだと思うので、その点をいくら批判したって、社会がやせ細るだけではないのか。よくわからんな。きれいごとばかりいう人を叩くことで、かれらはいったい何を成したいのだろうか、と疑問には思うが、興味はわかない。しいていうなら、鬼気迫る正義が目に余るという状況でなら、そういう批判は必要か。ちょっと落ち着こうよみたいな。でも、それってリベラルだけにありがちなことでもないような…

 

 別の話に飛ぼう。共同幻想と対幻想の矛盾をぼくは楽しんでいる。かならずしも対立図式になるとは限らないからか。共同幻想と対幻想の対立とか、いい加減なことば遣いをしていることも多そうなので、今後は気をつけよう。

 イデオロギーでは対立していなくても、社会構造上、対立せざるを得ないみたいな話は共同幻想と対幻想の矛盾か。

 

 なにひとつはっきりすることのない意味不明の日記になったようだ。