忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

久しぶりに予想する。たぶん、外れる。

 『ひぐらしのなく頃に 卒』

 結末はきっと北条沙都子のほうから古手梨花を突き放すことになると思う。

 他の『ひぐらし』作品に触れていないので、的外れなことをいうかもだが、古手梨花が背負わされた業、惨劇の繰り返しを追体験できているのは本作では北条沙都子だけではないのか?とすれば、古手梨花がなぜ雛見沢から離れたいのかを理解し、なぞる。そして、沙都子がそれを理解したとき、梨花との別れを決意し、離れる。それも愛だ。

 もうひとつ、別の読みもある。それは昨日、考えたことに関連する。沙都子と梨花の関係性はあの雛見沢という環境から生まれてしまったものと見ている。なので、雛見沢の問題が沙都子にとって解決すれば、これまでの関係性は意味を失う。縁が切れるという話ではなく、たぶん、梨花への執着が消える。そう思わせるのが、叔父、北条鉄平の存在。叔父との関係性が変化して、沙都子にとっての雛見沢問題が良い方向に転ぶことになりそうという読み。

 

 過去作は謎は完全に明かされているのだろうか。肝心かなめのところはこういうのは明かさないほうがぼくは好き。まあ、どっちでもいいか。

 

 ウィズコロナとゼロコロナ

 ウィズコロナしかありえないも、ゼロコロナしかありえないも、どっちも変だと思う。どちらかしか正解ではないという見方はおかしい。ただ、実際にはどちらかしか選べないわけだから、それぞれにメリットとデメリットがあるだけの話ではないのか。国によっては方針転換はあったのだろうか。

 日本は今のところはウィズコロナで一貫していたし、そこそこうまくいっていたのだと思う。で、今後は不透明って感じなのだろうか。

 で、いろいろと疑問。

 ・メディアや言論人の一部が不安を煽り、ゼロコロナへの方針転換を求める国民が増えたみたいな話は本当なの?ツイッターでそういうことをいう人を見かけるというのなら、わかる気もするけれど、それはあくまでもツイッターの中の話ではないのか。ぼくにははなから多くの人はゼロコロナには期待を寄せていなかったように思う。で、今でもそこは変わってないと見える。

 ・ウィズコロナとゼロコロナの方針の違いの背景には理念の対立がある?もし、そうなら平行線になるのかも。でも、疑問だな。理念ってそんなに大事なのか?すくなくとも、ぼくはコロナ禍で自分の価値観を試されたような気はしない。どこかで理念が先行される形で議論されていたりするのだろうか?テレビとかでそういう話になっているのか?見ないので知らない。理念と現実の政策の関係の問題。

 ・価値観の変化はあったのだろうか?今のところは、ぼくはそんな感じがしない。かりに、ぼくの中で価値観に変化があったのだとしたら、細かい生活習慣の変化、たとえば、道を歩くのにもマスクをするとか、そういうことの積み重ねで、気づかぬうに起きているのかもしれない。

 ・医療体制の拡充が期待されたようには進んでいないことから、厚労省、分科会、医師会に対する批判があるようだ。うーん、政治権力批判?ぼくは平素、政治報道を忌避しているが、今こそ出番ではないのか?こういう批判こそ、外野からいうのはたやすいが、実行は困難の典型に思う。コロナ禍がおさまったとき、医療体制改革とかいって変な方向にいったりしないだろうか…まあ、たぶん、ぼくはそうなってもボケーとみているだけだろう。すこし上記した内容に重なるが、日本の政治は理念に基づいた正論を戦わせることで動くものなの?きっと、政治報道に携わっている人はそこへの嗅覚は鋭いのだろう。ぼくは全然、鼻がきかない。