忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

手抜きだった、というか日本論はあまり書きたくないので

 先日、あるアニメキャラに関する断想を書きながら、考えていたこと。

 そのアニメキャラに狂気を見れるという話だったが、思えば日本にはだれでもしっているその種の人間が実在しているではないか…と。しかし、あまり関心のないことには言及しないことになっているのでその話はこれでおしまい。

 

 地続きの話だが、日本人自体が狂気キャラだなと…ぼくも例外ではない。コロナ禍でよりはっきりしたような。宮沢さんはもうある意味、答えを出してしまっているような。日本人は真にコロナを恐れていたのか?おそらく、個人的になんらかのリスクを抱えている人を除けば、そんなことはない。だから、日本人はコロナにビビり過ぎみたいな見当はずれを書き散らかしている人はなにか別のものと戦っていたのだと思う。すこし脱線してしまうが、その種の煽りというか、嫌い嫌いビームは旧来のイメージとしての知識人に対して放っていたのではないか。ぼくの雑な印象ではその手の反動的なことばが届く範囲はせいぜいぼくの世代くらいまでで、もっと若い人には届かないだろう。まあ、いいや。といいつつ、さらに脱線すると、最近知ったリベラルへの批判も同じで、反動なのだろう。ただ、難しいのは君のやっていることは反動だと指摘したところでどうにかなるようなものではなく、反動の何がダメなのかも、正直、よくわからんので、昼寝でもしとくかとなる。まあ、そんなわけで今、眠れない。

 大事なことは大して恐れてもいない、この点だ。そこに加え、だれかに(国家権力に)命令されたわけでもないのに、みなマスクをつけ、また、多くの人がワクチンを接種している、この状況。

 犬に見せてあげたかったよ。ぼくのマスク姿を。人間の論理なんか通じないから、きっと吠えまくったことだろう。そんな妄想をしていると、狂っているなぁと笑いがこみあげてくる。自分としてはだれかを笑わせようと思って、していることではない点がさらなる笑いを誘う。

 

 ※反動にぼくがおもしろみを感じられないという問題は引き続き考えてみたい。『このすば』問題でもある。『このすば』には反動がない。

 

 ※コロナ自体よりも感染を恐れるということはあったと思う。それは今日書いたこと以上にややこしい問題。排除の話。日本論としてやるなら、ビビっている/いないなんて問題ではなく、こっちが本丸と思う。さらに言えば、検査を抑えたことの意味。結果的にたまたまそうなっただけかもしれないが、検査数を増やさないことのメリットもあったと今でも思っているけど、まあ、ぼくに科学的常識がないだけかも。

 政治と科学って話もなんだか危なっかしい問題なのか。

 

 ※これは別にぼくに限った話でもないとは思うが、日本について積極的には話したくない、書きたくない人が一定数いる意味。戦後民主主義の影響だと思う。しかし、それでももっとぼくは別のものに影響を受けた気がする。まあ、いいや。