忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

起きているから言える寝言の記録

 以前にも書いたかもしれない。コロナ禍で目の当たりにした出来事についてである。サンデル先生が世界中の学生といっても、欧米に加え中国と日本の学生を集めて、議論していた。それほど、サンデル先生のファンというわけでもないが、テレビに出ていたら、なんとなく見てしまう。サンデル先生を見るというよりも、世界の若者の話が聞けるからか。

 無論、その時の話題は新型コロナについてであった。ワクチン接種をナッジによって促すことの是非が俎上にのった。個人的には学生の反応は意外であった。

 欧米、日本の学生はほぼナッジに賛成だった。嫌味ではなく賢いなと感じたが、めんどくせーという思いも同時にわきおこった。とはいえ、彼らには賢さだけでなく、善意や正義感もあっただろう。

 一方で、日本人学生のひとりは逡巡し、中国の学生はナッジに明確に反対していた。中国では接種が法で義務付けられていたので、ナッジの必要性を考慮するまでもないということか。その様子を見て、中国の学生の法に対する感覚はまともに見える。別にぼくは権威主義国家を礼賛したいわけではない。

 日本ではワクチン接種は努力義務となっていた。法に依って義務づけられたわけではない。そのせいであるかは知らないが、未接種者よりも接種者のほうが感染者が多い事実が判明しても、そのこととワクチン接種の関連性については厚労省は調査しないらしい。また、それで問題ないのだろう。もし、法に依拠していたら、どうなのだろう?それなら調査は必須になるのか?であるなら、法で義務化したほうがよかったのでは?と思えてくる。

 ナッジは権威主義的な面構えではない。なので、穏当に人を、多くの場合は大衆を正しい道に導くかに見える。

 はたして、どっちがよかったのだろう。(ナッジで接種をすすめることと法で接種を義務化すること)

 サンデル先生はあの時、法との関連からナッジについて論点を整理していただろうか。忘れてしまった。

 

 ナッジは苦手という話はこのへんでいいか。

 この問題はややこしい。ぼくのような大衆は専門知についてはよくわからないままに判断だけ迫られる。そのことはどうしようもない。時間があれば、調べきれるものでもない。メディアを通じて、主にテレビ、新聞、ネットを通じて、専門家のお話を聞いて判断するしかない。ワクチンについてはぼくは結局、町のお医者さんに相談したけど…

 ともかく、メディアがそこで果たす役割が大きいし、影響も大きい。

 そのことについて2点、記録を残しておこう。

 

 ①信頼のおける専門家の探し方について

 ぼくがその方法を書き残そうというのいうのではない。その方法について、ちょっとまずい指南を見かけたので、異論を残しておきたい。様々な意見の専門家を複数フォローするまでいい。そのあと、だれが信頼できるのか?その判断材料として、あるクラスタ内で浮いていない人なら信頼できるみたいな指南はちょっと肯けない。ワクチンの有効性と限らず、学説の正誤は浮いているとか、浮いていないで決まるようなものではない。なんといえばいいのだろう。クラスタ内の評判、その世間の評判が言説の正しさを担保するわけではない、か。

 例はなんでもいいのだが、例えば、ぼくは「八月革命説」とかいまだに理解できない。この説自体が政治的に機能してしまっているので、正誤以前の問題を含んでいる気がする…丸山が嫌いだからではない。むしろ、よくこういうことを思いつくもんだと感心する。

 今回のワクチンのようにのんびり判断するわけにはいかない、喫緊性の高い問題であるなら、世間の評判に従っておけ!でもやむえないのかもしれないが、それはワクチン慎重派を反ワクチン陰謀論に含め、排斥する根拠にはならない。日本の言論空間は酷かったと思う。

 

 ②反ワクチンと親ロシア

 ワクチン慎重派排斥の動きも酷かった。が、ウクライナ侵攻が始まって、反ワクチンと親ロシアは重なっているとみたいなお話が出てきた時は、酷いを通り越して、無感動から笑いがこぼれた。よくもそんなことが言えたもんだ、と。

 そもそもの疑問なのだが、この場合は、調査対象はツイッターの言説?、ともかく、こういう分析はちゃんと学問として確立しているのか?分析の結果はなにを語りえて、なにを語りえないのか?、そこはちゃんとしているのだろうか。あまり興味もわかないので、調べる気も起きない。ということは、この点にぼくは文句をつけちゃダメか。なら、それはいいや。

 今回の陰謀論として扱って、人の口を塞ぐやり口はいろいろと応用可能性がありそう。それゆえにヤベー気がする。特に、日本は本当にきれいに一色に染まるのがわかったから。

 ぼくなんかは、この日記を分析されちゃうと反ワクチンで、親ロシアで、マスク支持の頭がバカで、おかしい人ということになるのだろう。それでも別に構わないが、ワクチン慎重派の学者の所見を無視し続けたのはまずかったと思う。ウクライナ侵攻でも同様。気味が悪いくらいに一色。まあ、これは以前にも日記に書いたし、繰り返さない。

 

 ついでなので、もうひとつ嫌われそうなことを書いておこう。

 ワクチン接種の順番について

 日本よりもイギリスのほうが公正で優れていたと思う。イギリスははじめに決めたルールに従って、接種を進めたと聞いた。日本は途中から職域接種、大規模接種会場といった別ルートをつくり、当初に決めた順番は意味を失った。そして、ここには重要な問題がある。日本政府はまず、ある価値観から優先順位を定めて、それに従って順番を決めたはずだ。が、それを別ルートを用意したことで政府自ら放棄したのである。この事実をどう理解すればいいのか。ぼくにはよくわからない。ある価値観を放棄したのか?別の価値観にのりかえたのか。スピード重視?

 それで接種スピードが上がったので結果オーライ(死語)という人がいるかもしれない。たしかに、そうかも。でも、そこで問いたいのはスピードと公正であったら、スピードを優先する社会が理想か?ということ。ケースバイケースというなら、それでも結構なのだが、理想の社会像みたいなものは何かがある度に想起したいと、今回のコロナ禍を経験して、ぼくは思った。

 ぼくはスピードよりも公正さを優先する社会に住みたい。急かされるのが嫌い。ちんたら、のんびりやっていきたいというのもある。まあ、社会の一員としてというこではないので、その思いは叶わなくてもよい。

 まあ、もうちょっと余計なことを書いてしまうと、ワクチン接種に関してはドン引きだったわけです。有名人、主に、テレビに出てきそうなインフルエンサー、芸能人が我先にと接種報告をしていた。テレビ、ネットで。その様子を見て、涼しくなって、人が空いていたらいってもいいか、くらいに考えていたぼくはなんだろ、これ?と思うわけです。おまけに当時は未接種者はフリーライドしているみたいな言説も流布されていた。異様だった。

 マスクだけでなく、ワクチンも当たり前という空気がありましたよ。今、マスクだけがやり玉にあげられているのも奇妙といえば、奇妙である。