忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

昨日の続きなど

 アニメと日本が好きで何かの間違いでこの日記にたどり着いてしまった人にとって少し不快な内容をメモ。

 ぼくはだれの見てもわかりやすい、いわば通俗的な社会批評性を主題にするような作品、最近、話題になったものでたとえるならドラマ『新聞記者』とか、商売としてはうまいとおもうが、まったく関心がない。その事件そのもではなく、事件の作品化への関心がないのだ。ここまではあまり不快な話でもないだろう。

 そういう作品に対して、一見、社会批評性など無さ気な作品に宿る批評性は時に驚く。いろいろと言葉を尽くさねばならぬところだが、面倒になってきたので、結論から言ってしまおう。7話までの滝先生であれば、きっと立派な特攻隊長になったていた。もっとも、かれが部員に挙手を問うた文脈が戦時、特攻の前日なら、翌日に散華したのは斎藤葵ではなく、彼女以外の部員たちだ。そうだ。今でも、ぼくらは特攻をやれる。残念ながら、この作品はそのことを示しているとぼくには思えるので、これまた、残念なことに魅かれ、あれこれ要らんことを今、こうして書いているわけでもある。なので、島尾敏雄問題と以前に書いた。

 そして、これは畢竟、権力性の問題なのだと思う。日本人はどうしても、良い/悪い、以前の問題としてこういう権力を必要とするのだろう。外国もそうかもしれない。ぼくにはなにをどうしたらいいのか、さっぱりわからんので、繰り返し言及しちゃうのだ。せいぜいできることは自分はかかわらないようにするくらい。

 わかっていたことだけど、書いてもちっともすっきりしねーや。すっきりするよーじゃ困るんだよな、と。もう、やけくそでいらん方向に話を飛躍させると、さて、これは笑いになるのか?

 ぼくはダチョウ倶楽部の「どーぞ、どーぞ」という芸をテレビでちゃんとみたことはないのだが、それはそういうことを笑いにいたのだろうか?特攻隊長にお先にどーぞ、どーぞという芸ならいいのになとは思う。いや、思わないな。もう、そういう文脈そのものを破壊したくなるけど、それってもう人間ではないよーな?社会を営む人間に不可避な可誤というか、なんというか。

 もうひとつ、最近、日本人は自分の国ために戦おうという人が少ないという調査結果をネットで見かけ、それにたいしていいね!/いいわけねーだろ!の賛否があったみたいだが、いずれの期待も心配も無用だよ。実際、始まれば、空気に倣って戦うのが日本人だ。ぼくはその点では日本人を信じている。(半分皮肉)問題はぼくがあまりその気にならんことだろう。かりに戦っていても、なんか違うんだよなーとかぶつぶつつぶやくと思う。まあ、ぼくのことはどーでもいい。

 

 今日はもうひとつメモ

 『時光代理人』に関するお話

 記憶と自己同一性

 自己同一性は記憶によって担保されるのか?記憶が喪失したら、自己同一性は失われるのか?

 これは哲学的な問いとして成立するのだろうか?まあ、ぼくにはわからん。

 とりあえず、『やがて君になる』では七海燈子の問題として解答まで提出していた。関係性の問題として捉え直していたように思う。やや記憶が曖昧。ただし、十分に説得的だった、というのは物語の流れとして、七海燈子と小糸侑の関係性の問題として説得的な解答だった。

 まあ、永井均さんの「独在性」ということばが気になっているのだ。

 ぼくはたぶん、この「独在性」というものを誤解している。が、それでも、記憶が消えても、なお自己であり続けると思う。関係性の問題としてではなく、内心にある確たるなにかに支えられものとして。

 記憶よりも根源的な要素があるのだろうという感じ。

 と書きつつ、ぼくが矛盾するのは疑似回顧物語とはまさに記憶をめぐる問題であり、そこに関心があるのだ。

 

 そうだ。

 最近、finalventさんのラジオがおもしろい。おもしろいというか、人の話を聞くということの楽しさみたいなものを感じる。まあ、もとからテレビはあまり見ないけど、たまに見ると「ためになる話」みたいなのが多いと感じるし、賢い人の賢いお話みたいな毒にも薬もならんよーなお話で聞いていると疲れる。まあ、テレビはお話を聞く道具ではなく、情報入手、エンタメ摂取の道具ということなのだろうか。

 夜中にふと聞いてみるみたいな25時間目のひとこまみたいな感覚だろうか。

 前置きながい。『わたしたちが描いたアニメーション「平家物語」』は買ってみようと思ったのだった。まあ、実はあまりこういう作者による解説みたいなものは読まないことがおおいのだけど、ラジオでうかがったかぎりでは、絵がきれいなのかと思ったのだ。

 

 川辺では桜が咲いていた。つくしも多分、こんにちはしている。