忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

メモ

 匿名性について

 正体を明かすことでそこに倫理はうまれるのか?みたいな話。ぼくの大雑把な認識では細田守監督の作品のいくつかではそれが扱われている。で、以前から、そこへの疑問はあった。(作品がおもしろくないということではない。むしろ逆。作中、正体を明かすことは禁忌になっていると考えられ、禁忌を冒し、結果、報いを受ける。いや、「あえて」禁忌を冒すからこそ、倫理になりうると見るのが自然だ。そこは興味深い。)

 その問題についてなぜ疑問をもったのか、それが自分なりにすこしだけわかった。たとえば、この日記は匿名性の影に隠れて書かれているが、そこに後ろめたさはない。書かれた内容が愛と正義に満ち溢れているので、後ろめたさは発生しようがないというわけではない。(愛だとか、正義だとかをいちいち意識していられるほどに意識高い系ではない。そもそも意識は低空飛行気味。正確を期すなら、低めで安定的な飛行を心掛けている?)正体を明かすことに倫理性があるようにはとても思えないだけなのだ。

 なぜか?

 この日記を書いているぼくがぼくであることをぼくではないだれかがわかっているかもしれない。というか、そのだれかには隠しようもないくらいにバレバレなんじゃないの?なんとなく、そう思えるからだ。そこでは匿名であるか、どうかは重要でなくなる。文字を日記という形式で残してしまった以上、ぼくはだれかの前に立たされているのだろう。

 先日の話の続きなのだ。というか、先日書きながら気づいたが、面倒なので書かなかったこと。

 過去で問題になったネット社会における匿名性の問題とはズレているのかもしれない。

 

 ツイッターは集団ヒステリー発生装置なのか…

 学問に忠実な態度をとることで発言をしづらくなるというのはおかしな話と思うが、なんなのだろう。人類にツイッターは早すぎたみたいなお話に帰着するものもおかしな話に思える。(ウイルス学の話です。コロナ禍になってyoutubeを見て、とても勉強になったので、なんといったらよいかわからんけれど、悲しいですね。)

 でも、そうなのかもしれない。ネットと人類の付き合いってそう多くの年月を重ねているわけではない。

 それとは別に知的であることがなぜ残酷に映るのか、という問題はありそうだけど、よくわからんな。そういう見方を捨てれば、世の中がおもしろく見えるってことはあるような。偶然とはいえ、コロナ禍で『ファフナー』を見れて、おもしろかった。とか、書くとこれはこれで語弊があるのかもだけど。もう、フェストゥムはウイルスにしか見れない!で、フェストゥムとの共存を探る竜宮島の人々はおもしろい。

 

 全然関係ないことを思い出した。

 ぼくが河野さんにブロックされる可能性はゼロだ。

 有名でないからでもあるし、なによりツイッターをやっていないからだ。

 なので、(ブロックを)やれるものなら、やってみろと思わんでもない。