忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

いきあたりばったり

 『小林さんちのメイドラゴンS』11話を見た。

 トールの過去話。

 トールの父、終焉帝が出てきた。彼はダメな親という自覚があるらしい。うーむ。『あだしま』の安達の母親がぼくは結構好きだ。ダメな親というのは本人がいうほど駄目じゃない。変な親ではあると思う。変な人はこどもには貴重かもしれない。こどもというか、社会に必要かもしれない。

 『メイドラ』で誰得シリアスは見たくないみたいなことをネットで目にしたが、11話のことだったのか。うーむ。でも、この11話は必要だったんじゃないの?と思う。

 トールと小林の出会いは偶然。メイドになったのも偶然。で、今、トールはメイドになりたかったんだと気づく。それでいーじゃん。一連の流れの中で空っぽな自分に気づくっては好きかも。ツボかも。

 

 おもしろかった。

 家族ものとして見ても、近年、話題になった万引きする家族とか半地下に住む家族ものと比較しても、『メイドラ』はおもしろい。まあ、あまり他の作品との比較とかしたくはないけど、ややこしいテーマを扱いながら、説教くさくならないってそれだけでもすごいと思う。なぜ、そうなるのか?なんとなく見当はつくような。背景としての社会の描き方か。ロールプレイとしての父、母、こどもみたいなものを分業的に固定して描かれないからか。それと映画は90分~120分の物語であるから、その中で物語る制約からは逃れがたいものか。やっぱ、作品の優劣みたいなものはないのだろう。

 ただ、ぼくは『メイドラ』のほうがおもしろいと感じるだけだ。

 

 昨今、話題の政局方面の話に飛び火させるなら、いわゆる保守的な家族観と小林ファミリー?(滝谷、ファフニール含む)といっていいのか、迷うが、いずれにしろそのふたつは明らかに性質を異にするが、別に対立するようなものではないだろう。でも、不思議なことに対立を読み込もうと思えば、可能であるし…みたいに書いていくとはっきりするのだけど、こういう書き方じゃ『メイドラ』のおもしろさが失われるよね、という話。政治よりも社会や作品の内容が先行しちゃってもいいのだろうし、「伝統」を守りたいという人がいるのなら、そういうひとはそうすればいいだけ。こういうことも書かんほうがいいのかもだな。

 

 全然、関係ない話

 いつごろから1年中、焼き芋が買えるようになったのだろう。今日食べたのはちと甘すぎるし、しっとりしすぎる。こういう感想は贅沢なのだろうか。もう少し、ボソボソしていてもいいような。つまりそうになって、コーヒーで流し込むみたいなのが理想形か。