忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

眠る前に考える夢の記録

 昨日、寝る前に考え、起きたら解決する予定だったふたつのこと。

 ひとつ目。数々の作品において繰り返し反復されるテーマ、価値観の対立とか、こどもからおとなへの成長とかについて。よく扱われるテーマであるから、実に様々な語られ方をしてきて、多くの名作が生まれた、今も生まれている。テーマそのものが多くの人を惹きつけてやまないという問題。反復されるので飽きられないように表現を工夫する問題。

 昨日、考えたのはここまで。今日、目が覚めてもなにも進展はなく、さっき散歩をしながら、あーでもなく、こーでもなくとやってきた。受け手であるぼくからすると興味があるのは前者の問題。一度、こういうものがおもしろいのだという思い込みが社会で確立されると動かしがたいものなってしまうのだろう。でも、同じようなテーマを扱っていても、なにか新しい感じを受けることもあり、これが不思議。作者にとっても、受け手にとっても無意識の領域の話になるのだろうか。新しい感じというものは大体、違和感を伴っている。スルスルと理解がすすむものではない。日記で繰り返し言及している作品なんか、すべてそういう傾向がある。わからないから、書いてみて、はっきりさせたいという衝動。そして、大体、わからずに終わる。

 

 おおくの作者によって反復される場合と同一の作者によって反復される場合。ここに違いはあるのだろうか。

 

 ふたつ目。『安達としまむら』10巻を読み終わり、あまり深く考えもせず、島村と樽見の別れを樽見視点でも読みたいと書いてしまったが、よくよく考えてみると、ややこしい話かもしれない問題。島村にできたのが彼女である場合と彼氏である場合で樽見の失恋の質に違いはあるのか?正解とかはないように思う。彼女たちは同性愛であることに意味を見出して、島村は安達を、樽見は島村を好きになったわけではない。つまり、事後的に自分が同性愛者だと気づいたのだ。彼女たちは好きになった人がたまたま女性だったのである。(もっとも、樽見×島村は幼馴染という点には留意が必要である。)であるなら、樽見は島村に彼女できたと聞いたとき、なにを思ったのだろう。彼氏ではなく、彼女と知ってなにを思ったのだろう。

 入間さんの文章で読みたいと思ったのだ。

 夢に樽見がでてくることはなかった。ヤシロなら出てくるだろうか。

 なので、散歩では別のことを考えた。10巻で描かれた同居生活という日常について。読んでいて楽しいというのとも違う。ドキドキする要素はない。かといって、ほのぼのという感じでもない。彼女たちがそれぞれにもつ寂しさみたいなものが落ち着いた描写にうまくはまっている感じなのだろうか。

 

 全然関係ないことを思い出した。

 『門』を思い出したからなのだが、漱石と鴎外。今はどっちが人気があるのだろう。どっちでもいいといえば、どっちでもいいのかもしれない。でも、漱石のほうが人気ありそうなイメージ。本屋にいくとそう感じる。それは漱石にはたくさん弟子がいたからなのだろうか。弟子がたくさんいた人のほうが後世にまで残りそう。