忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

メモ、時々、感想

 よく寝た。二度寝をした。三度寝は諦めた。

 

 『やがて君になる 佐伯沙弥香について』3巻メモ

 佐伯沙弥香の恋愛の仕方は変わったのか?

 自分を偽るのにそのひとに理想の自分像があるか、否かはどうでもよいことなのかもしれない。自分を偽っているという感覚のある、なしのほうがよほど大事そう。

 気になっていた沙弥香の恋愛の仕方に変化はあっただろうか?結論からいってしまうと、ぼくにはよくわからなかった。なんとなくではあるが、彼女のこころからそのことへの後ろめたさは消えたとは思える。でも、はっきりとは答えが提示されないあたりがよいのではないだろうか?そう簡単に片付くような問題ではそもそもないのだ。共感を読者にさそうような「あるある」ではなかった。

 

 よく練られた構成だったと気づく

 なぜ小学生の話からはじまったのか?そこがおしまいまで読むと分かる。また、小学生の時に出会う女の子に名前がないのもそのためか。見落としている可能性もあるが、この少女については名前に加え、年齢も明かされていない?ただし、その少女が枝元陽である可能性を示唆しているわけではない。うーん、ここもそこまでいいきってよいものか、ちょい悩む。陽の泳ぎが遅かったのも、水中の沙弥香を見るためでしょ?そっくりそのまま小学生のときの出来事に重ねたのか、否か?

 自覚なく沙弥香は自分の祖母に似てきている。このあたりの描写はうまい。沙弥香はいってみれば、勘のよいばーさま予備軍。でもね、これは実際には適当に言ったら、あたっているというだけの話でつまり、あたり、はずれが重要ではない。勘のよいひとというのは周りに安心感を生む、それが事実上の効果なのだと思う。で、「優しさの形」とかいわれちゃうわけだ。

 まあ、そのことに限らず、沙弥香は祖母に似ているのだと思う。祖母も同性愛者であり、それにも気づいているはず。沙弥香にばーさまのことばがささるのは似ているからだよ。なぜなら、ぼくには全然ささらないから。彼女は誤解している。祖母は勘が良いのではなく、彼女に似ているだけなのだ。

 うーん、こうしてみるとかなりきつい話だったのかもだ。偽り続けた祖母の存在。

 

 組み合わせ

 佐伯沙弥香/枝元陽 自分を偽る/自分を偽らない 年上/年下

 七海燈子/小糸侑 自分を偽っていた/自分を偽らない 年上/年下

 うむ、これからぼくはなにを読み取ればいいのか?さっぱりわからん。

 

 異なるタイプの偽る自分

 誰に対して偽っていたのか?燈子と沙弥香、それぞれの場合

 燈子は自分に、沙弥香は相手に。

 このことについてはちょっと時間をつくって、考えてみたい。

 現時点のぼやっとした感覚では作者の違いかな。

 

 おまけ、だが泣けた

 佐伯沙弥香はひとに対する許容範囲が大きくなる。

 泣ける。ぼくもこれはそう。前は嫌いな奴がいっぱいいた。今でもいるけれど、確実に減っている。沙弥香と少し違うのは、その多くはぼくが無関心になったゆえ、でも、まあ、沙弥香みたいなひとは前は嫌いではなく、苦手だったが、今は好きよ。こっちはそうでも、あっちもそうとは限らないのが問題。

 

 感想を書くときにそなえて

 この作品の主題は偽りの自分

 中学生時代は本棚、高校生時代は平行線

 偽りの自分が問題となるのは恋愛において?答えはノー。自分が問題になるのはそもそも恋愛時というほうが正確。日常で自分が問題になるのはだいたい何かに相対したとき。それはひとであっても、本であっても、神であっても、なんでも構わない。といいきりたいところだが、佐伯沙弥香、あるいは、七海燈子を見ると分かるように、相対するものがいなくなっても、この問題だけは残る。なんでだろうね?だから文学になるのか?「愛は消えて、傷跡が残る」問題と命名する。

 ただ、この作品が文学たり得たのは偽りの自分だったからだと思う。この屁理屈をとおすための感想になる予感。

 

 百合作品に対する理解度はあがったのか?

 わかりまぜん。