忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

先日の補足と訂正など

 『恋愛フロップス』8話を見たが…

 ゲームではなくVRということだったが、その読み違いはひとまずほっておく。

 自分の生きる現実にまとわりつく嘘くささみたいなものが主題ではなかった。

 むしろ逆か。自分の生きる現実が嘘であって欲しいという願いが主題か?というとそうではなさそう。

 『シュタゲ』なのか。

 つまり、対幻想と共同幻想の矛盾。

 あのVR世界はどのようにして生まれたのか?その起点は、朝と愛の対幻想が壊れるところから始まる。

 『シュタゲ』はみんなのおかりんというあり方とクリスを愛するひとりの男、岡部倫太郎というあり方が共同幻想と対幻想という図式。まあ、こっちはいいや。

 みんなのおかりんー共同幻想ーまゆり生存ルート

 クリスを愛する岡部林太郎ー対幻想ークリス生存ルート

 うーん。VRとAIというものが物語の中で機能しているのか。

 みんなの朝ーハーレム的世界ーVR共同幻想

 愛を愛する朝ーふたりの世界ー現実ー対幻想

 矛盾というかどちらかしか選択できない。両立しない。いや、矛盾でいいのか。

 どなたか、頭のいい人にお任せしくなる。まあ、だれかにまかせきりというか、だれかがかんがえてくれるのかもわからんので、自分で考えるしかないか。

 

 『シュタゲ』は平行世界であったので、どちらも現実で、やっぱ結末については、…お茶を濁したくなる。好きな作品だけども。

 

 こうなっては仕方がない。話を逸らそう。

 ゲーム世界内がオチというアニメの作品名を思い出せないが、アニメ『グリッドマン』シリーズが仮想世界と現実を描いていた。『アヴァロン』はゲーム世界。『攻殻機動隊』の少佐はあちらの住人になった。

 まあ、どれも、これも、その結末はどうしてもやっとした感じなるのか。

 メタバースに関する議論でも、そうか。仮想世界は現実と等価という結論にも、現実に勝るものなしという結論にも、どっちでもいいじゃないか?という結論にも、ぼくはもやっとしたものを感じる。

 こういう作品はだから何度でも出てくるのか。挑戦的な作品ということかと思う。だから、視聴者としても見たくなるのだと思う。

 

 対幻想と共同幻想の矛盾は、端的に、吉本の文学的感受性の高さのあらわれであったと思う。感受性としておいたのは、民話などを彼の読み、解釈によって再構成したから。まず、はじめに受け手としての読解がある。ほめ過ぎでもないと思う。おもしろい人だったな、と。たぶん、人間は物語をつくると無意識のうちにこういう構造をつくりだしてしまうのだろう。あれ?『共同幻想論』を読む必要がないのでは…というか、読む必要がないのだと思う。

 

 お茶を濁せたかのか。わからん。

 

 こういう挑戦的な作品がつくられているうちは日本アニメに期待できると思う。なので、少々、もやっとしたものが残っても、これからも見ると思う。

 

 『陰の実力者になりたくて!』

 続きが気になるところ。モブの死を次週、憶えている人はいるのか。モブはいなくなったことさえ気づかれてはいけないのか。

 死者、そして、追憶とでも書くとぐっと重たいテーマにもなる。

 

 大仏はつくらなくていいのだろうか。コロナ禍があったから、国葬についてぼくも考えようと思ったのだった。岸田さんはどうだったのだろう。個人的な接点がある時点で、ぼくとは全然、違う感覚だとは思うけど。当たり前のことだな。

 福田さんはといっても、福田康夫さんはどうおもっているだろう。国葬ではなく、大仏のほう。なぜあのときうまくいかなかったのか。

 

 大きく脱線した。

 

 はい、次。

 脱線しているうちに忘れた。

 

 『千年血戦篇』は本当に忘れている。零番隊、ひとりも憶えていなかった。そろそろ卯ノ花烈のお話かと思う。

 

 単純な命題に還元して理解した気になる傾向はぼくにもある。なぜ、こういうことをしてしまいがちなのか?たぶん、無理に理解しようとするから。理解に落とし込む必要もないのにみんな結論を急ぎすぎなのかも。でも、そういう理解は思考から生まれたものではない、というのはそう思う。

 パターン認識みたいなものにきっと近い。ただ、パターンの発見は思考によるのか。ぼくなんかがしているのは、すでに発見された既存のパターンに当てはめる作業というほうが近い。そして、その精度は、ぼくの場合、AIに抜かれていると思う。

 

 AIが書いたアニメの感想文を読みたい。

 

 うむ、『恋愛フロップス』の理解は一度、対幻想ー共同幻想から離れてみよう。

 そういえば、吉本は結論をバシッと決めるタイプの物書きではなかったな。『最後の親鸞』のグダグダな感じとか。

 

 外は冬だ。寝る。