ナンセンスギャグというものがよくわからない など
生暖かい湿り気を含んだ風に頬を撫でられるという感じではなくなってきた。
次の季節をどことなく感じられる頃合いはいつも、この寂しさが漂う。
今日は左前方から野良猫たちのじゃれあう?威嚇しあう声がした。いや、ちがうのかな。求愛の歌か?
ナンセンスギャグと不条理ギャグというものは同じなのか。
松本人志さんなんかを見ても、よくわからない。
赤塚不二夫はナンセンスギャグなのだろう。ただ、ぼくは赤塚不二夫のギャグではないところに温かみのようなものを感じる。ナンセンスギャグではなく、温かみのある描写が本領ではという気もする。
よくわからないが、ナンセンスギャグとは
ことばの重みに耐えきれなくなり、底が抜けた身も蓋もない感じか。
高橋留美子さんはナンセンスギャグの名手だろうか?というのが本題だ。
「ちゅどーん」とか、「定めじゃ」とか。
ぼくが勝手に最高峰だとおもっているのが、「おれはおんなだー」
ことばの重みに耐えきれなくなったというのは違うか。
まあ、これはまた考えよう。
ことばがなにかの重みにたえきれなくなったか?と。
まあ、いいや。
ともかく、安西親子がとても好きというお話だ。
令和の時代の竜之介親子はどうなるのか?
ジェンダー論として語られたりして?ところで、竜ちゃんはトランスジェンダーなのか?
しかし、竜ちゃんの親父さんは変な人だな。血縁者じゃなくても、不思議はない。ただ、間違いなくこのふたりは親子だ。血縁者じゃないと感じさせるのは、くそおやじが竜ちゃんの母、つまり、自分の妻を忘れたと言っていた気がするので。だいぶ前の記憶なので怪しいけど、そのとき、かれは忘れたのではなく、知らないだけでは?と思った。
令和版『うる星やつら』にすごく期待している。めがねはいないほうがおもしろいと思う。いるのだろうか?
ナンセンスギャグのお話はどこかにいってしまったようだ。仕方ない。また、今度にしよう。吉田戦車は見たことない。
『86』はまだ、見直していない。
でも、少し整理はできてきた。気がする…
戦後民主主義的な声の代表を「きけわだつみのこえ」とすると、序盤の呪詛のような響きを持つ黒羊の声こそが戦後民主主義的と見たほうが妥当であったのかも。
以前のメモはいろいろと混乱している。
対してシンの声は反戦後民主主義的なのか?ある戦争に意義を感じ、戦う人なのか?というのは違うか気がする。シンは共和国から疎外されている。疎外の結果として戦場に立つ。そこにしか居場所がないという感じか。
共和国が隠ぺいしてる矛盾とは?
理想主義的外見を維持するため、無人兵器ということになっているが、その実態は86区の人間のった兵器である。のっているのは人間ではないという理屈。なので、存在しない人間の住む地区である86区も存在しない。
たしかこんな感じだった。要確認。
とすると、戦後の日本社会が無視した声の主に近いのは、黒羊といよりも、86区の人々か?
どーなんだろ。わけがわからなくなってきた。
というのは、そうはいっても、シンが戦後の日本人を象徴していると見方はできると思うので。つまり、死者にどう向き合えばいいのか?がわからない人という位置づけ。
いったん、この話題から離れよう。
というか、『86』のメモを書こうか、すこし、迷った。
忘れていたけど、8月だったので。カレンダージャーナリズム。
まあ、あまり気にしてもしかたないから、こうして書いている。
ところで、死者に申し訳が立たないという言明にはぼくは肯けない。この態度で死者に向き合うことはぼくにはできない。このことばはどうしても、生きているからいえることばのように聞こえる。そこから、さらに…
あー黒羊の呪詛
「きけわだつみのこえ」も、無視された声も呪詛のように響いているということか。
なので、黒羊がどちら「だけ」を代弁していたと見なければいいのか。
なんで、こんなことをメモっているのかといえば、まとまった感想を書こうと思っているからではなく、たんに、見直す時のポイントを押さえておこうと。
この作品に限らず、仮説をもって見るとか、読むとか、これはたぶん、気づいたら、そうするようになっていた。もっとも、前はその仮説は結末から逆算したものが多かった気がするけど、最近はそれを避けるようにしている。