忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

いろいろメモ

 昨日はうどんを食べ過ぎた。

 今日はチキンを食べ過ぎた。

 明日はなにを食べ過ぎよう?

 夏の食欲は異常だ以上だ。

 

 どーでもいいニュースを目にするのはドコモのサイトをトップページにしている自分のせいだと気づいた。設定いじるのがめんどいのでこのまま行こうと思う。それに世間を知るというのも大事なことには違いない。

 しかし、最初に興味のあるジャンルを選択した気がするけど、無難そうなニュースにしたはずなのだが、どー考えてもニュースでないものが混じっている気がする。あのサイトはどこでつくっているんだ?どこってドコモ?どこもかしこもドコモ?おやじギャグの練習をしている。

 

 黙禱論争について

 他者に強制するようなものではそもそもないというのはその通りだと思う。

 これでこの話はおしまいでもいいが、ひとつだけ余計なことを。

 いちいち報告する必要もないよね。ワクチンの時も思ったけど。なんでいちいち、この種の行為のする/しないを報告するのか?

 まあ、なんでもいいや。

 

 『リコリス・リコイル』に失望した

 うんこネタとか。うん、小ネタ。おやじギャグの練習をしている。

 

 永井さんの箱の話はぼくの誤読だったようだ。こころの話なのか。いや、でも、自他の分別がついているという話なのか…

 本で、『涙が涸れる』がお好みと知った。たしかに、「とほくまでゆくんだ ぼくの好きな人々よ」の呼びかけのところはぼくも好きだが、その先の「窮迫したぼくらの生活からは 名高い恋の物語はうまれない」のところがもっと好きだ。

 この詩が突然、銀幕に現れるのを実際、見てみたかった。ぼくはDVDで見た。それでも十分にかっちょよかった。

 

 『リコリス・リコイル』に関連して『Gunslinger Girl』の話題を見かけた。暗いアニメだったのは覚えている。暗いのはまったく欠点ではない。美点とさえいえる。が、このテイストのアニメは今はない気がする。2002。この20年とは?

 

 あ、それで思い出した。

 「大きな物語は終わった」から「大きな物語への回帰」という現状分析。

 ぼくはまったくそうは思わない。

 当時の背景を知らないけど、冷戦が共産主義国の自壊、つまり、東側の敗北に終わり、民主主義国家のみになり、「歴史の終わり」というものと「大きな物語の終わり」を符合させた?

 まあ、この理解でいいのか?

 ともかく、大きな物語が終わった、という認識がぼくにはよくわからない。与太話としても、おもしろみを感じない。終わっていやしないのだから、回帰も、くそもない。

 

 もうタイムリーではない話題、天皇の戦争責任について

 『天皇の戦争責任』、同名の本がいくつか、あるようだ。ぼくが読んだのは、加藤・橋爪対談で竹田さんが司会?みたいなの。

 読んだのは出た当時だから、だいぶ前。『敗戦後論』の次に、ついでに?読んだ。よく、本をついでに読むことがある。

 読後の変な印象、天皇の戦争責任を問う加藤さんが三島的天皇主義者に見えて、それに反論する橋爪さんが反天皇主義者に見えた。橋爪さんが共和主義者かは知らない。でも、そう見えた。

 これも、戦後のねじれか。

 『86』のことを書いていて、このことを思い出した。

 戦後のねじれ

 戦後の矛盾

 それと、最近、目にした光景、戦後民主主義の転倒。でも、それをぼくは諒とはしない。なんか唐突なんだよな。正義の大合唱がいきなり始まる感じ。

 

 「勝ち組」、「負け組」、「無敵の人」

 「無敵の人」にはユーモアを感じない。

 「勝ち組」、「負け組」も、そう素敵なことばとはいえないが、それでも、ユーモアは感じる。別に負け組だけを小ばかにしているのはなく、勝ち組も小ばかにしている。さらにいえば、なんでも勝ち負けに還元する感性を小ばかにしているようにも思える。

 繰り返すのあれなので、別のことばにすると、「無敵の人」ということばが嫌いだ。

 これはことばのつかわれ方、語用の問題か。

 自嘲気味に「(ぼくは)勝ち組ですから」とか、「(ぼくは)負け組ですから」というは見かけそうな気もするが、「(ぼくは)無敵の人ですから」ではない気がする。「無敵の人」は自分ではなく、他者にあてることばな気がする。気がするだけ。でも、そこが嫌いなのかもだな。

 

 最近は睡眠導入剤がわりに西行を読んでいる。で、寝つけなくなっている。