忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

夏アニメ メモなど

 『よふかしのうた』7話

 今のところ4話がおもしろかったと思っているけど、7話を見て感じたことをメモ。

 この作品はあらためて恋愛を描こうとしている点はわかった。7話はモテる人の生まれ方か。だれか(A)がだれか(B)のことを好きと言明すると、それを聞いた周りの人間もBに関心を持ち始め、いつの間にか、Bはモテることになる。よくあることではないかもしれないが、モテる人間はこうして誕生する。

 さて、困った。が、はっきり言ってしまうと、モテる人間の誕生する場、それこそがホモソーシャルジャパンではあるまいか。本作では、吸血娘たちの女子会?だった。

 とすると、七草ナズナはホモソ嫌いの下ネタ好きというよくいるタイプみたいな気もしてくる。

 ここで、ぼくが想像してみたくなるのは主人公、なぜ夜森コウが学校嫌いになったのか?ついてだ。彼はいろいろと言ってる。で、嘘はついていないだろう。それに、本作はそれが本題でもかもしれないし。

 彼もホモソが嫌なのか?

 しかし、会社員の女性の悩みというのはコウの不登校とどこかでつながっているのだろうし、ホモソとはあまり関係ないか。

 

 あ、突然、思い出した。そういえば、小糸侑も「(だれかを)好き」というのがわからないと言っていたな。いやー、それをわかるひとなんていないだろ、と言ってみる。言ってみただけ。

 

 見ると読むと聞く 

 書くと言う

 なんだっけ?忘れた。

 ああ、純粋な知覚ってあるのか。ただ、見るだけ、聞くだけ。

 そういうことが人間にできるのか。

 

 まあ、よくわからないから、いいや。

 とりあえず、言語が介在しちゃって無理なんじゃないか、と。

 

 そうだ。違うことを思い出した。

 純粋にイデオロギーから導出された結論から、ワクチンを接種する/しないに至った人は日本では少数ではないか、という指摘をみた。たしかに、そうかも。

 この問題は多くの人にとっては判断にたる情報にアクセスできたとは思えないので、確たるイデオロギーなんか持ちようがないし。

 それなら、なおさら疑問が残る。

 例えば、ウイルス学者さんによって想定される懸念は事前に公共放送などを通じて、国民に伝えてもよかったんでないの?と。なんの懸念もないなら、まあ、そうなの?とは思うけど…

 こういう疑念が出ちゃうのは、というか、ぼくが持つのは当初、言われていたワクチンの効果が疑わしい、というか、今、言うことが変わっているよね。

 感染予防とはもうだれもいっていないでしょう。重症化予防と言っている。言うことをコロコロ変えるなとは思わない。でも、今、言っていることもまた変わる可能性はあるのか、と受け取っている。

 あと、当初は2回接種だったよね。今は3、4回と増えとる。なんで?

 変異するものに対してワクチンという手段は有効なのか?ぼくは素人なので、こういうのもわからん。

 しかし、感染予防の役には立たんのに予防効果と言われても、困るだけだし、変わってもらったほうがいいのか。

 

 SNSに対するぼくの偏見

 含意のある言明と受け取ってしまうところはあるかも。というか、なんかそういう身振りをする場としてSNSが機能しちゃっていると思っていた。

 そういう場として使っている人ばかりではないよね、と思い直した。実際、ぼくがおもしろいと思ってのぞく人はそういう感じではないし。

 

 うーん?でも、SNS的人間みたいなのはあると思える。というか、ぼくにも、その要素がある。だから、なんの他意もないかもしれない言明に含意を読み取るみたいなことをしちゃうんだろう。

 

 インターネットの普及は今から30年前?当時の人は30年後にはどんな展望があったのだろう。

 

 しかし、ぼくは30年後の展望を今の社会にもっているか?もっていないかもだな。そういうもんか。30年後も人類はSNSでレスバをしているような気もする。

 

 もうすこしこのお話を進めると、お話の通じない社会というのはSNSによって生まれたのか。

 ただ、お話の通じない人が可視化したというのは違う気がする。実は、これまでも、お話が通じていない状態だった。それがSNSによって可視化?というのも違う気がする。

 で、さっきのSNS的人間の誕生みたいな話か、と。すでに、正解はあるコミュニティ内では決まっているので、異論の余地がない。結論ありきの世界?そんなののどこがおもしろいのか。じゃあ、これも違うか。

 結論。わからん。

 

 五輪報道について

 五輪に関心がないので、この報道にも関心がない。

 というか、東京五輪では大メディアはスポンサーだったのでは?

 というか、読売は自分のところの上司(主筆)に取材に行けば、五輪と限らず、もっとすごいお話が出てくるのでは?これは皮肉ではない。だって、彼は生き字引でしょ。

 

 カルト宗教なら社会的制裁、例えば、報道による集中砲火は許されるのか?

 ぼくはまったくそうは思わない。

 違法性があるなら、まず、法で対処すべきでは?

 カルト認定は現行法で対応できるのか?できないなら、今はそれは不可能なのでは?こういうお話は、というのは法学的視点からの報道はあるのか?

 新法が必要なのか?で、その新法ができたとして、過去の事例に照らして新法を適用し、宗教法人格を剝奪することは可能なのか?

 しかし、ぼくは仮に新法ができたとしても、そういう新法にそもそも違和感がある。そして、なにが基準であるかもわからない社会的制裁にはもっと明確に反対である。これがぼくががきんちょの頃に見たオウム報道から学んだことだ。

 社会的制裁なんて消えてなくなれ、と思う。