残暑が厳しい、夏アニメ メモなど
今日は芋を食べすぎた。
いつもよりも太陽に近い通りを歩き、いつもより左半身だけ日焼けしたような気がする。
こころの中で
とは叫ばない。
明日は目玉焼きにしよう。しかし、ぼくは両面をしっかり焼いて食べるのが好きだ。
夏アニメは結局、いくつかは脱落してしまった。
お話としては『よう実』、『金装のヴェルメイユ』、『よふかしうのうた』が楽しい。ただし、『よう実』はあまり評判がよくないようだ。アニメ向きではないということか。絵に動きがないことで、確かにアニメとしての見栄えは微妙ということかしら。とくに異論はない。それでも、最新回の櫛田の描写なんかはすごく恍惚感があって、きもくていい感じとは思った。しかし、櫛田は実際、そんなにきもくはないだろう。きもいというよりクソ野郎でもなく、凡庸な悲しみを感じる。
ところで、『金装のヴェルメイユ』はタイトルがネタバレではないよね…と思っている。
『よふかしのうた』についてはいろいろ書いた気がするし、今日は割愛。
『ルミナスウィッチーズ』はお話自体はよくわからん。アイドルものという見方が一般的なのだろうか。ところどころにハッとなる描写はある。今のところは各回ひとりに焦点を絞って、さらにそのひとりにはそれぞれ相棒がいるというのを描写している。が、一組だけコンビではなく、トリオがいる。しかし、『ストパン』シリーズを未見なため、いろいろとわかっていない。ネウロイという未知の生命体と戦っているのか。その設定はわかる。なので、日本はアメリカと戦っていないのか。
『リコリコ』の感想をすこし漁ってみた。お話に満足できないというは少しわかる気がする。主軸はなんなのだろうね?
組織の全貌がはっきりしないとなんとも言えないような。
マジマはあの世界が生み出した悪なのか?
『サイコパス』の槙島はそこの設定はよくできていた。で、槙島とは別に常守朱のあの社会への疑義というものがあった。
『リコリコ』ではちさとのあの社会へのスタンスか。不殺というのは組織への方針へのスタンスと見ればいいのか。それとも、あの社会へのそれと見てもいいのか。
このへんをチェックポイントにしてみよう。
永井均さんのおっしゃる「独覚の不可能性」というのはわかるような、わからんよーな。
エリート主義的に一部の人だけが到達できるだけでは、まったくダメということだろう。
結局、ぼくみたいな信仰心があるのか、ないのか、それすらよくわからんという人間でも、自分ではそうと気づかぬうちに悟りに至るのでないとだめなんじゃないの?というややこしい問題か。
やっぱりよくわらん。よくわからんとか言いつつ、生きて死んでいくしかないのだろうか。
ともかく、ぼくには何ひとつ具体的なイメージがわかない。せいぜい、別のなにかを達成しちゃった系と言ってみることしかできない。より正確なことば遣いを期すとすれば、別のなにかを達成しちゃったような気もするけど、それが何であるかも、達成したのかも、どちらもよくわからない系となるだろう。
ところで、「なろう系」には「ぼく、なにかしちゃいました?」というのがある。気づかずにすごいことをやってのけるみたいな。しかし、これはあまり関係ない。すごいことやってのけるみたいなのは信仰には関係ないだろう。
宗教的信仰は突き詰めていくと最終的には宗教的信仰自体を否定するしかない。そうなるのか。
しかし、このお話から派生して、悪人正機説というものも難しいと思う。
親鸞はそこをごまかしたと言った人がかつていた。そういいたくなる気持ちはわかる。造悪論というのも、繰り返し想起せざるえない。そういうことが実際、起きてしまうのだから、仕方ない。それが人の世か。
と書いてみたけど、なんだろうな。この後味の悪さ。
ああ、『リコリコ』もマジマ的悪がどーのといようなお話であるのか。であるなら、マジマの描写は今のままじゃぼんやりとし過ぎていると思う。お話の本筋でないなら、その限りではない。先を見てみないとなんとも言えん。
『異世界おじさん』の微妙に納得してしまうところ
おじさんが自分の異世界生活を映像化して、回顧する。あれはまさにぼくらが日常でやっている回顧そのもので、あのおじさんのようにみんなも、正確に見ることができていないのだと思う。非常にリアリティのある描写だ、と勝手に思っている。
事実の認識レベルではなく、その解釈に至り、混乱が生じている。