忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

夜風は涼しい

 散歩に行ってきた。

 

 アニメ『ヨルムンガンド』を見たのは、けっこう前のことであまり内容は覚えていない。それでもオチはなんとく覚えている。で、当時、こんなことを空想であっても、考える人がいるのだな、と思った。まあ、わけがわからなかったのである。でも、ぼくも気づいたら、同じような空想をしていた。ある日、全世界で一斉にPCR検査と隔離をやめちゃえばいいのに、と。しかし、科学リテラシーのない人間の戯言と一蹴されるのがオチであろう。

 『ヨルムンガンド』は今、見たら、まったく違った感想をもったかもしれない。

 

 ・だれかからの指摘で、どうしようもない現実に気づいたときの人の反応について

 怒りとして、表出しちゃうのはなぜなんだろう。これはけっこう、ぼくにもあるかもしれない。防御本能?でも、おかしいのはなにから身を守っているのか?

 それはひとまずほっておこう。

 夕張市財政破綻したときは在京メディアでも報道されていた。その後、ぼくは新聞の購読をやめてしまった。今年に入ってから、たぶんテレビで、JR北海道廃線に関するニュースを何度か目にした記憶がある。夕張市の報道の時ほど、ぼくは関心を持たなかったし、メディアが特に熱心に報道していた記憶もない。新聞はそうでもないのだろうか。

 巷間でたまに見かける指摘、日本人は「見たいものだけしか見ない」みたいな態度になったという気はしない。

 うーん、お話がそれてきた。最近、ニュース番組の在り方が変わったと思う。というか、そんな指摘はすでにあるだろう。事実に関する報道よりも、その報道にどういうコメントをつけるか?、で、そのコメントのほうがニュース化しているみたいな倒錯感がある。見たいものだけをみるというよりも、コメントだけを見る。たぶん、自分とは異なる意見も多くの人は目にしているんじゃないか。まあ、それはいいや。番組の在り方ではなく、受容の仕方が変わったのかも。両方変わったのか。

 ぼくが単に報道に接しなくなっただけなのか。それとも、社会全体がそんな感じなのか。

 まあ、ぼくは日本のメディアに、とくに報道に元からあまりいい印象を持っていないから、この手の話題が苦手かもだ。といっても、この場合の報道とは政治報道のことなんですけどね。

 話を元に戻そう。

 で、もっと根本の問題がある。ぼくはいったい、どんな社会に住みたいと思っているのか?考えたことがないかもだ。