忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

メモ

 本音と建前?

 テレビ文化、特に、情報番組?報道番組?ニュースショー?なんと呼べばいいのかは知らないし、コロナ禍以降、ほぼ見なくなったが、建前の話ばかりしているというのはぼくもそう感じる。度々、その手の番組が炎上したみたいな話を目にしても、その炎上も建前の炎上であったのではないか。犯罪者を「不良品」と評言した話も例外ではない。ひどいことば遣いだと思うが、そういうことば遣いをしてもそこまで大きな問題にならないと、それなりに見当がついていたのではないか。ゲームの最新攻略情報を仕入れに巨大掲示板をのぞきに行くと、その手のスレッドがたっていた。(最近はゲームの攻略も適当になっているので見に行かないが…)その種の有名人が炎上しているみたいな知りたくもない情報が目に飛び込んでくるわけだ。無論、そこはクリックはしない。その事件についていえば、かれらの間に本当に恋愛はなかったのか?というとこれまた大炎上になるのだろうけど、その疑問の声がだれからもあがらないほうがよっぽど気味が悪かった。だれもではないか、そういう言及は見たかもしれない。が、結局、検察の書いたストーリーだけが一般には流布していった記憶。

 でだしから脱線してしまった。

 今日メモしておこうと思ったのは、建前の話をしているとき、本当はそこに本心だとか、真意だとか、本音を隠しているのか?という疑問。ぼくの場合は建前は建前であって、本心なんぞないわけだが、ひとさままでそうなのかは知らない。なので、昨日、月白瞳美が色彩感覚を失っているのに、さもそれがあるように振舞うというのは建前問題としてみることもできるのかと思ったのだ。

 よくわからん。保留。

 それと、建前の話を延々とする情報番組はなんのためにあるのだろうという疑問。これまた、よくわからん。

 いずれにしても、真意とかよくわからんものでもやもやするのはめんどーなのでぼくはそういうものは気にしない。また、ぼくには真意とか、本心みたいなものは基本的にはない。建前だけでできるかぎりやっていくんだよ。

 

 つーか、こんな話を書く予定ではなかった気がする。わすれた。

 

 ついでなので、昨日、寝る前にふと思い出したこと。

 近代知識人の孤独について。吉本から主にぼくはそれを学んだ。考える人が世にそれほどたくさんいない時は考える人の孤独が文学になりえた。で、今はどうなのか?ツイッターでも、巨大掲示板でも、いたるところでみな自分の考えを述べているし、高等教育への進学率なんかを見ても、明治の知識人たちがおかれた環境とは異質。つまり、考える人自体がそれほど珍しい存在ではなくなった?

 では、孤独のほうは?たぶん、孤独というものもめずらしいものではなくなったのだと思う。ぼくはツイッターはやらないけど、やったらますます孤独感を深めたような気もしなくはない。自分で考え、発したことばの通じなさから孤独を知る。こんなものは今の世にはあふれかえっている。

 というか、吉本もすでにそんな指摘はしていたかも。

 そうすると文学は孤独を手放すのか?まあ、そうはならんだろう。なんだかんだ、狭い入り口から入って広い出口を探すことになるのでは?ただ、ことばの通じなさからくる孤独のようなものではだめなのかも。

 寂しいという感情はいいもんだな。寂しくても、バカでも、生きていけるってなんだか、いいもんだ。

 

 ということで寝る。

 

 思い出した。ピカソについて書こうと思っていたのだ。

 ピカソに聞いてみたいこと。女性の泣き顔を描くために、女性を泣かせるようなことをしたのか?まあ、聞いてみたいとか、書いたけど、それほど答えは知りたくもない。ただ、芸の肥やしみたいな発想だとつまらんと思ってしまったのだけど、昨日はなんとなく書くのを避けてしまった。