忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

メモ

 今日も昨日の問題と格闘してみた。

 まず、どこらへんが重要であるのかをぼくが理解できていない。なので、以下の2文とずっとにらめっこしてみた。相手は文章なのでにらめっこ自体の勝負はつかない。というわけもなく、ぼくは負けた。その結果、目を逸らして、今、こうして文章をタイプしているのだ。

 『現代思想』12月号『大森壮蔵の何が画期的でしかし私はその何に不満を感じたか』永井均さんの文章からふたつほど引用する。さっきまで、にらめっこしていた文章。

 

 「なぜかは知らないが、この世界にはいつも意識だけの人といつも振舞だけの人(少し緩めて言ってもいつも意識の側から始まる人といつも振舞の側から始まる人)との二種類がいる。」(pp.112-113、『現代思想』12月号)

 

 「もしこのパースペクティヴが任意に移動可能なものではなく、(振舞学説の場合になぜかいつも意識の人となぜかいつも振舞だけの人という区別があったのと同様に)なぜかいつも拡大・伸長して他人の心の中を直接感じる人となぜかいつも拡大・伸長されて心の中を直接感じられる人とが固定的に区別されるなら、そこにも大森哲学と全く同じ問題が起こらざるをえないことになる。」(p.113、『現代思想』12月号)

 

 大森壮蔵についても、廣松渉についても、読んだことがないので理解できないのは当然だったかもしれない。

 

 なので、以下、気になったことメモ書き。

 ある議論を始める前に予め措定されたことにより、必然的に導かれる帰結がその措定の否定?方法論的陥穽?思考法の陥穽?

 

 

 『新視覚新論』の興味のある所だけを読んで思ったこと

 自分のしてきた旅について話す男について

 男がその旅ついて話すとき、旅がじかに立ち現れるということらしい。一方、聞き手のほうでも、その旅が立ち現れるが、必ずしもその姿は一致しないという理解でいいのだろうか。

 特に、異論もない。というよりも、異論が生まれるほどに理解できていない。

 ひとつ気になったこと。大森の文章を読みながらぼくが想像したこと、それは聞き手についてなのだが、そのとき、聞き手はなにを見て、聞いていたのだろう?もし、その聞き手がぼくであったなら、目の前である人がなにやら自分のしてきた旅について話している。どうも楽しい旅だったらしい。とりあえず、楽しい話を聞くのは愉快だな。というようなことを思ったかもしれない。

 そこで、旅は立ち現れているのだといわれれば、そうだなと思うけど、ぼくのその妄想は絵画のタイトル風に切り取ると『旅について話している男』になる。立ち現れているのは旅について話している男ではないのか?よくわからない。

 旅について話している男は後にぼく自身が振り返ったときにあらわれるもの?話を聞いている時点ではやはり旅しかたち現れていないということなのか。

 

 こういう感想になったは永井さんの文章を読んだ後に『新視覚新論』を読んだからなのか。

 しかし、ことばは呪文という発想はいいものだと思った。(ぼくの場合、)魔法使い見習いみたいな位置づけになるだろうか。それと「じかに」という感覚。これはちょっとよくわからない。でも、回顧したとき、必ずではないにしろ、あらわれる悲哀の感覚とか、たしかに生々しいものがあるので、それがじかにという感じなのか。

 

 とまあ、門外漢なので好き勝手なことを書いた。

 ところで、常になんどきもというわけではないにしても、ぼくは実は人のこころというものを気にしないようにしている。大森のことば遣いに倣うなら、振舞を見ているということになるのだろうか。それで過ごせる。なので、アニメ『Sonny Boy』でも本心を読める女の子の存在はなかなかに不気味だった。でも、たしかに不思議だ。脱線してしまったが、なぜ過ごせるのか。最近の思い付きではこの世界には謎の力学が働いているので、その振舞を多少、見誤っても、補正していてくれているということかしら。謎の力学ってなんなんだよと自分でも思う。

 

 また、全然、違う話。

 これまた、最近、考えていたこと。近代知識人の孤独について。なぜ、我と彼に架け橋するのか問題。孤独だから?というか、ぼくみたいな素人からすると、孤独からうまれたものは大体、おもしろい。昨今は、ただ、もうちょいややこしくなっているのかみたいな。

 

 視点の移動について。これはある映画について、視点の移動がおもしろさにつながっているのでは?と思っていたので、とても参考になった気がする。

 

 よくわからないけど、おもしろかったという話。