忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

アニメ『見える子ちゃん』について書き忘れたこと

 先日、意図的に避けたわけではないが、映画『シックスセンス』については触れなかった。なので、今日はそのことに関するメモ。

 もしかしら、詳細な比較などすでにだれかの手によってなされているかもしれない。3話だったか?はそのものずばりという内容だったし。

 

 困った。映画『シックスセンス』の記憶がぼくにあまりない。まあ、いいや。そこらへんは大雑把にやっていこう。

 

 ぼくの記憶の中の映画『シックスセンス

 死んだ男×霊が見える少年 コミュニケーション〇

 死んだ男×霊が見ないその妻 コミュニケーション✕

 霊を主役にした点で『見る子ちゃん』とは違うような気もする。

 しかし、2作とも作者が意識して工夫しているのはコミュニケーションの見せ方のようにも思える。

 うーん。でもやっぱ死者を主役にした違いは大きいかもだ。

 『見える子ちゃん』の作品の解釈のひとつの可能性として、異なる世界観をもって生きる人々はディスコミュニケーションに陥りそうなのに、どういうわけか、うまいこといく話とも読める。この中のうちのだれかを死者にするとどうなるのか?と考えてみると、それは『見える子ちゃん』とは全然、別物な気がしてくる。

 そして、そういう物語の解釈がゆるされるなら、それをぼくらの現実の世界に敷衍してみたくなる。(嘘。ぼくは作品を現実に投影するのも、現実を作品に読み込むのも、どちらもあまり好きではない。)例えば、ぼくにはちっともそのようには見えないけど、菅さんが「特高」に見えたり、尾身さんが「宗教指導者」に見えたり、安倍さんが「マリオ」に見えたりする人がけっこういたようだ。(だれもかれもが「特高」にも、「宗教指導者」にも、「マリオ」にも、「マスオ」にも、見えるという話なら別。無論、ぼくが自分をそのように見ることも例外ではない。)そういう人たちとぼくは異なる世界に生きているような気もするが、おそらく、その違いを補正するような謎の力学の存在により、どういうわけか、共存できている。このような日常の不思議と『見える子ちゃん』は同型の問題という認識。謎の力学の解明が急がれる。うん、やっぱおもしろくない解釈だ。

 しかし、映画『シックスセンス』では主人公の死者をなにかの比喩と考えることが可能か、どうか。そして、比喩として見たら、おもしろくなるのか、どうか、そこが問題だ。

 ということで、この問題はひとまず、ほっとく。

 

 『見える子ちゃん』についてちゃんと感想を書きたい。今期はあとは『色づく世界の明日から』についても。ただ、こっちは再放送だったみたい。

 困った。感想を書く予定で書いていない作品のメモ

 覚えている限りで

 『蒼穹のファフナー

 『Vivy-Floulrte Eye's Song-』 

 『リズと青い鳥

 『小林さんちのメイドラゴンS』

 

 全然、関係ない話。4発変換くらいで出てこない登場人物の名前。葵唯翔とか。困ります。まあ、ぼくのワガママですね。

 

 今日、『現代思想』12月号を買ってきた。大森壮蔵特集。ぼくは1冊も読んでことがない。というか、哲学書というものを基本的には読んだことがない。というのもすこし違うか。哲学を勉強するつもりで哲学書を読んだことはないというほうが正確か。当該雑誌をちょっとだけ読んで思ったのだけど、大森壮蔵はクオリアについてなにか、言及はしているのだろうか。まあ、クオリアというものがぼくにはよくわからないが…氏の考えが持つ二重性というところ、ちょっとよくわからなかったが。非対称性から出発して、それを否定せざるえないところから本当の問題は始まるという理解でいいのだろうか。うむ、わからん。さっきの話に戻っちゃうけど、そういう考えの人にクオリアというものが存在するのか、どうか。

 絵画をみていると思うのだが、なぜああいう描き方になるのか?、色彩の配置になるのか?という問題。よくわからんものが多い。しかし、それでもなにが描かれているのかはなんとなくわかるみたいなの。しかし、さっぱりわからんというものもあるけど、見ているだけでも楽しかったりはするのだし、不思議なもんだ。(色彩感覚については意味不明なことが多い。まあ、見る側、とりわけ、ぼく自身の問題か。)

 とりあえず、『新視覚新論』を読んでみる。目次を見たらおもしろそうだったので。回顧するとはなにをしていることなのか、というお話の参考になりそう。